てみた。いつも、その女の本姓をいって電話をかけたので、電話口へ出た婢衆《おなごしゅ》らしい女に、こちらの名をいわず、それとなく、
「もしもし、あなたは松井さんですか。藤村さんはおいでですか」といってきくと、いつでも、その松井の家の定まった返事の通りに、婢衆は、
「藤村さんは今留守どす」という。
これまでとても、彼女が家にいてさえ一応はそんな返事をするのが癖なのであったが札が取れているのでは、留守であることは問わずとも知れている。それでも、女がそこの家にいる時分と同じように、いつもの「留守どす」で、返事を済ませている。もちろんこちらが誰であるか、知っているはずもないのだが、もし知れていたならば、一層不愛想な返事をしたかも知れぬ。私は、ひたすら紙よりも薄い人情の冷たさを、夜の冷気とともに身に沁《し》みて感じながら、重ねて委《くわ》しいことを訊こうとする気力も抜けてしまい、胸の中が空洞《うつろ》になったような心持で、足の踏み度も覚えず、そのまま喪然《そうぜん》として電車に乗り、上京《かみぎょう》の方の宿に戻《もど》ってきた。とてもその勢いで取って返し、その家に訪ねていって、名札の取れて、もういなくなってしまった事情を訊ねてみる力は失《な》くなってしまったのである。そして足かけ五年の間真実死ぬほど思いつめたあげくが、こんなことになってしまったと思うと、何より自分という者が可哀《かわい》そうになって来て、冬の夜の寒い電車の中にじっと腰を掛けていてさえ、ひとりでに悲しい涙が流れ出た。
名札が取れて女がいなくなったにしても、もとよりどこを当てに訊ねるわけにも行かず、ましてそれが他の男に落籍されてしまったのであるとすれば、今ごろは、こちらのことを――もし知っているとすれば――「阿呆《あほう》め」とでもいって、好い心持になっているであろう。それを思いこれをおもい、この冬の寒い夜風の中を気狂《きちが》いになって飛びまわってもしかたがない。今夜はこのまま宿に帰り、哀れな自分をいたわりながら、どうかじっと寝ながらよく考えよう。
そう思って、宿にかえり、自分の部屋に通って、火鉢《ひばち》の傍に一旦《いったん》坐って、心を落ち着けようとしてみたが、とても、もっと委しい事情を訊き糺《ただ》さねばそのままに寝られるどころではない。それで、その宿には電話がないので、いつも借りつけになっている、
前へ
次へ
全45ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング