つくづく穴にもはいりたくなって、
「じゃ、そっちのにするさ」
「…………」
「これも、なかなかおよろしい柄でございます」
番頭がそういって、お宮が手放した方を取り上げて斜めに眺《なが》めていると、
「じゃあ、あっちにしようか?」こうだ。
「さあさあ!![#「!!」は第3水準1−8−75、340−下−21] もういい加減にしてどれかに早くきめたらいいじゃないか」私は焦《じ》れったくなって、せき立てた。
「いえ、どうぞ御ゆっくりと御覧なすって下さいまし」番頭はお世辞をいった。
「これがおよろしいじゃございませんか」こんどは先《せん》のと違ったのを取って見た。
「じゃ、あれにするわ!」お宮は口から指を出していった。そしてついに番頭が二度めに取り上げたのにきめた。
きめたのはいいが、後で聞くと、家へ持って帰ってから多勢《みんな》にいろいろにいわれて、翌日《あくるひ》自分でまたわざわざ松屋まで取り換えにいって、他なのを取って来ると、また主婦《おかみ》や他の売女《おんな》どもに何とかかとかいわれて、こんどは電話をかけて持って来てもらって、多勢で見比べたが、やっぱり元のにきめたのだそうな。
私はそんなことを聞いてから、お宮という奴はよっぽど浮気な、しょっちゅう心の動揺《ぐらつ》いている売女だと、ちょっと厭あになったが、それでもやっぱり止《や》められなかった。
松屋から帰途《かえり》に食傷横丁に入って、あすこの鳥料理に上った。私は海鼠《なまこ》の肴《さかな》で飲《い》けぬ口ながら、ゆっくりした気持ちになって一ぱい飲みながら、お宮のために鳥を焼いてやって
「どうだ? うまいか」と訊くと
「あんまりうまくないわねえ。……私今日昼から歯が痛いの」
そういって渋面《しかめつら》をして、口を歪《ゆが》めてすすり込むような音を立てていた。
その夜遅くなってから
「俺はもう帰ろう!」
考えていると、だんだんつまあらなくなったので、私はむくりと起き上ってこっちもあんまり口を利《き》かないで戻《もど》って来た。自家《うち》に戻るといえばいいが、ようよう電車に間に合って寒い深更《よふ》けに喜久井町に帰って来ると婆さんは、今晩もまた戻って来ないと思ってか、とっくに戸締りをして寝ていた。どんどん叩《たた》いて起すと、
「あなたですか、また遅くかえって!」
と、ぶつぶつ口の中でいいながら戸を
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