の家へ行つて其の用事を足し、さうしてゐる中にちよいちよい話の呼吸だとか、斯ういふ風にやるんだとか言ふやうな事を聞くのを何よりの楽しみにしてゐたものです。
今、前座にそんなことをさせた日には、一日か二日で御免蒙つて逃げてしまひます。そんな訳ですから、従つて今の噺家は其の修業が足りないだけ芸も上達しないだらうと私は思ひます。今時そんな馬鹿な奴があるかと言つて了へば其れで終ひですけれども、然し辛い苦しいと云ふのも奮発心を起させる物で昔は事実さういふ修業をしたものです。
現に斯ういふ話があります。私が最初噺家になるときに、友達に連れられて初代円遊の弟子であつた三遊亭遊輔と言ふ人の所へ行きました。この人は上方で亡くなりましたけれど、この遊輔の所へ行つて円遊の弟子になり度いと思つたのです。それで遊輔に、自分は円遊さんの芸風が大変好きだから連れて行つて弟子にして貰つて呉れと頼んだところが、遊輔は、それはお前さん甚だ了見違ひだ止した方が宜いだらう、失礼乍ら三年前座をしなけれや駄目だよ、君それ位でなけれや噺家になれやしないんだからと言ひます。其処で自分も考へたが、斯んな商売になつて三年も前座をするこつちや仕様がない、私は三年経つたら真打になるつもりだと言つたら、後で遊輔が彼奴は少し気が触れてると言つたさうです。
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次は私の貧乏話。
其の後私は禽語楼さんに縁あつて弟子になりました。トントン拍子で、実に間がよかつたと言ひますか、三年目に先代燕枝にもらはれて行つて弟子になり、それから真打になり、小燕枝となりました。だが、それ迄になるにはそれはどの位死なうかと思つたか分りません。人間死の苦しみつて言ふことを言ふが、それを一遍やらなくちや確かに駄目です。
前にも申した通り、ただもう苦しくて貧乏でどうにも仕様がない、寄席はつて言ふと、これは相当人気だけはあつたから、金を貸しては呉れます。これも然し大した金ぢやなく、あつちで二十円、こつちで三十円と言ふのが最高で、その代り俺の所にかかつたら割りで入れて呉れよと言ふ、ヘイ/\割で(割と云ふのは私の収入)お入れ申しますからと言ふんで借りたもんです。その借りた金は何にするかと言ふと端席(端席と云ふのは場末の小さい寄席)に使ふ。その時分私は駈出しでしたから、真打で通る為には端席を取ると金を出さなければならない。お客が来ないから、前の人々にそれだけの給金を払はなければ前を勤めて呉れません。勤めて呉れなければ所謂「舞てしまふ」と言ふので、看板を上げて十五日間続かないで、三日四日で止めてしまふ。さうすると、「あの野郎は駄目だよ、看板を上げて三日四日で舞つちまつたよ」と言ふことになります。それで割りを出して、前の人が逃げない様に勤めて貰ひ、十五日間やり通しました。それだから自然苦しくなる訳で、どうにも仕方がない。とうとう掛け持の寄席は何処へ行つても割は席に取られて少しも収入はなくなつて了ひました。何しろ借りが多いので、皆割りで引かれちまふんです。その頃俥屋の日給が二十五銭でした。然るに帰つて来て俥屋に払ふ銭がない、仕方がないから口から出まかせに「おい、お前五円で釣りがあるかい」と訊く、二十五銭の俥代に五円で釣があるかと言つても俥屋の持つてゐる道理がありません。これは分り切つた話で、「持つてゐませんが」と言へば、「ぢや明日の晩一緒にやるよ」と言つて帰へしてしまふ。翌日はどうでも斯うでも払はなければならない、さもなければ引いて行つて呉れない。夏であつたが、仕方がなく昼間の中に一番さきに絽の羽織を質に入れて、そうして今夜は之れで払へると思つて寄席へ行きます。ところで高座へ上るときに、前座が行李の蓋をあけると羽織がない、「お師匠さん、羽織がありません」「ああ嬶の奴が羽織を入れるのを忘れやがつたのだらう、仕方がない羽織なしで勤めてしまふよ」一晩は忘れたで済む。二晩目はそれでは済みません。仕方がないから風邪を引いたと言つて休む。そのうちに高利貸を彼方此方歩き廻はつて算段をし、羽織を受出して、風邪が治つたからと言つて寄席へ出ることになります。ところが終ひには有名になつて高利貸も貸さない、彼奴に貸しても取れないと言ふ。質店も同様です。そこで止むなく家へ二三日閉ぢ籠つたと言ふ様なこともありました。すると又捨てる神あれば助ける神ありで、或る寄席の主人が来て気の毒だからと言ふんで金を貸して呉れ、それでやつと高利貸の目鼻を明け寄席へも出られることになつたといふ、今の人の想像もつかない様なそんな苦しみもありました。
その頃の貧乏の三大将と言ふのが、亡くなつた三遊亭円右、三代目小さん、それと私で、円右さんなども実に長いこと貧乏をして居りました。晩年には相当資産も作られたやうですが…。
私も斯様に貧乏に貧乏を重ねて来て、それ
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