ですが、それを初日に出したものです。
 一〇は「へい御馳走さまで御座います」と言つたが「是はお客様が下さつたんですか」と聞き返へしました。「いえ、これは手前どもので、御祝儀に早速召上つて戴きます」「ぢやまあ今晩限りに致します」と言つたが、一〇は「席亭さん、何がお気に入らねえか知りませんけれど、お客はこんなに来てるし、第一高座から見てゐると随分|満足《うけて》おけへりなすつた。どう言ふわけで今夜限りになさるんです。」と聞くと、席亭は「お師匠さん、金は稼げば幾らでも稼せげますが、長生きはしたいもんですからね」と言つた。それは席亭が一〇の芸を聞いてゐて、所謂芸の臭いのに堪りかねて断つた次第です。昔の席亭にはそれ程の見識がありました。果せるかな、一時は江戸の寄席といふ寄席を大凡歩いて人気のあつた一〇が、二の替り三の替りとなると、段々臭いのでお客が聴かなくなり、とう/\上州へ逃げかへつたといふ話があります。どうも本場で叩き上げた芸と、所謂場違ひの芸とでは大した差があるやうで、今でもどうかすると一時ワツと騒はがれる者が出て来るが、それは一しきりで永続きがしません。また明治の中頃には、橘屋円太郎といふ噺家があつて、高座で喇叭を吹き音曲をやつて、円太郎馬車と言はれる位にまで人に知られました。その次にヘラ/\坊万橘と言ふのが現はれ、赤い手拭を被つて片肌脱いで朱の長襦袢を出し、ヘラ/\ヘイのハラ/\ハとか言ふ様なことを言つて一時は随分客を取つたものですが、中々続かず直きに廃れてしまひました。
 名人三遊亭円朝も、晩年にさう言ふ連中が蔓こつて出て来たので寄席をやめてしまひ、お客様の処へ行つて、「実にどうも私共の弟子にも孫筋にも色々な面白い芸人が出来ましてね、とても私共の話などはお客様に聴いて戴けませんよ」と言つたと言ふことです。自分も円朝師匠ではありませんが、今止めてつくづく思ひ当りました。



底本:「日本の名随筆 別巻29 落語」作品社
   1993(平成5)年7月25日第1刷発行
   1995(平成7)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「改造」
   1934(昭和9)年5月号
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年11月20日公開
2006年1月3日修正
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