分山水畫のつもりだらうが墨が滲んで眞黒になり、何だかさつぱり判らないのもあつた。私達はそれを一々、まづいだのうまいだの、笑ひ聲を立てたりして町を上から下まで飽きずに見て歩いた。
 さういふ一週間もつゞくのは、お祭りはお祭りだが客寄せの意味もあつたことに、ずつと後で氣がついた。そこは一寸した町だが、昔から近在のお百姓達を得意にして成立つた所で、町の繁榮策として近在から人を引きつけるためだつたらしい。例の紙の花は、それを田に差して置くと蟲がつかぬといふ云ひつたへがあつて、祭の最後の日には近在のお百姓達が勝手にそれを持ち歸つてもいゝことになつてゐた。浴衣がけで尻からげにし、團扇を腰にさしたお百姓が、何だか氣まり惡げに手を伸ばして紙の花の枝を拔きとり、扱ひにくさうに持つて歸るのを私はよく見た。その云ひつたへはお百姓からではなく町の側から出したものだらう。恐く徳川時代からのことだらうが、隨分狡いことを考へたものだ。今はどうなつたらう、やはりあれを水田の傍にさし立てゝゐるだらうか。
 このお祭が濟んでしばらくすると舊暦のお盆だ。そして、盆踊りがはじまるのだつた。夕方になると町のどこかゝら前觸れの太鼓の音が聞えて來る。まだ明い青味のある空を見上げて、その音のする方角を確めながら、今夜は染羽ではじまるさうだ、とか、新丁だとかいふやうなことを話し合ふ。ビラが町の所々に貼り出されることもあるが、さうでなくとも町中にすぐ知れ渡つてしまふ。
 そゝくさと夕食を喰べると、私達子供はまだ暗くならないうちから踊りの場所へ出かける。それはお寺の境内のこともあるし、一寸した曲り角の廣場や、通りのまん中でやることもあつた。若い者が四五人でやけに太鼓をたゝいてゐる。まだ人が集らないのだ。間もなく咽喉自慢の男が、たいてい四十か五十の年配だつたが、臺の上に立つて、番傘をひろげて、片手にふるまひ酒の入つた茶碗を持つて、音頭をうたひはじめるのであつた。
 最初のうちはちよろちよろした七つだの八つ位の女の子達が鼻筋にお白粉をつけて、音頭臺のまはりをうろ覺えに踊つてゐるだけだ。暗くなると、どこからか顏をかくして誰だか判らない踊り手が、女だの男だの老人だのがぞろぞろと出て來る。その頃にはまはりは見物人で一杯になる。
 どういふわけか、私が物心ついた頃には變裝が盛んで男は女に化け、女は男の格好をするのがはやつた。股引に
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング