を望まず、手紙を出しても返事をくれない、昨年末バタを送つたのに、その返事もないから僕に一本書いてくれ、と彼は涎を吸ひ氣味に話した。僕が書きはじめると、彼はさも云ひにくさうにして、
「そしてね、お菓子を少しね、板チョコ五枚送つてくれつて書いて下さい、えゝ、えゝ、チョコうまいですからね」と云つた。彼は日本橋の生れで曉星中學の三年まで上つたことがあるのである。
彼は昌さんと同じ小屋に寢起きしてゐる。彼は皆がすんだ後、昌さんを風呂に入れてやるのだと家の人から聞いたが、まだ見たことはない。彼はときどき昌さんをつれて山へ行くが、昌さんは民さんが牛を引いてゆく後から、例のもつれるやうな足をして、陰鬱な顏をして、ふらりふらりとついて行く。だが、昌さんはいつのまにか山から逃げかへつて來る。民さんは昌さんの共同生活者であり、又、先輩でもあるのだ。僕は或る時、民さんが放牧へ出がけに、しきりと昌さんを怒鳴りつけてゐるのを聞いた。
民さんは戸口へ出て、紅い顏、力《り》きんだ樣子をして、昌さんの出て來るのを待つてゐる。昌さんが出て來た。彼は民さんにくらべるとずつと長身なんだが、その細長い足に草履をつゝかけて片方はどうにか普通にはいてゐるが、今片方は横履きにして、その方の足をひきずりながら出て來た。民さんが彼のだらりと垂れた帶をしめなほしてやつてゐる間、昌さんはそのどこを見てゐるのかわからない眼で、憂鬱さうに氣むつかしげにあたりを見て額に一杯の皺をよせてゐる。その皺は奇妙な皺で、何かあるときゆつと實にはつきりと浮かぶのである。
民さんは昌さんの手を荒つぽく引つぱつて、牛小屋の傍に榛《はん》の木の根もとにつないである牝牛の綱をほどけと命じた。昌さんは例の皺をよせて、ひよろ長くつゝ立つてゐる。
「ほどけつたら、ほどけ」と、民さんが強く命ずる。まだ立つてゐるので、民さんは昌さんの肩を突きやる。昌さんは榛の木の根もとにおづおづと寄つてゆくが、牛が何ごとかといふ風に頭を下方に近づけるので、昌さんの眼の前にその角《つの》が來る。「あ――あア」といふ變な、しぼるやうな聲を出して、昌さんは手をひつこめようとするが、民さんが背後に立つてゐて許さない。「あ――あア」と呼びつゞけながら、昌さんは榛の木を楯に牛の角を避けるのが精一杯で、綱をつかむことができない。民さんが突然眞紅になつた。そしていきなり昌さんの腕をとらへて、榛の木の根もとに押しやつた。昌さんはやつと綱をほどいた。牛は温和《おとな》しくついて行く。すると昌さんは何を思ひ出したのか、急に綱をおつ放《ほ》り出して小屋の中へ入つた。民さんが、「何してるつ」と叫ぶが、なかなか出て來ない。昌さんはやうやく出て來た。どういふわけか、左足首に黒い紐を結びつけてゐる。民さんは又眞紅になつた。「何だ、何だつ」と云ひながら追つかけて、その紐をひきちぎらうとした。昌さんはあの「あ――あア」といふ聲を出して必死に拒んだ。民さんがその肩をつきやる。彼はどうしてこんなに怒るのかと他目《よそめ》には思へるほど奇妙な怒りに燃えてゐるのである。昌さんは綱のはしを持つて、氣むづかしい顏をして、ふらつくやうに榛の木の疎林と桑畑の間の路を向ふへ、その後から短躯の民さんが背負枠を負ぶつて、がに股をしてついて歩く。彼等は牛小屋のわきを通つて、そこにゐる他の牛どもを集めて、それらの黒と白の斑《まだら》な背が日の中にくつきり輝いて、傾斜の草地を上つて、芽の出そろつた林の中へ隱れてゆく。――
夜更けになつて、僕の耳に彼等二人が庭の向ふの小屋の中で言ひ爭つてゐる聲が聞えて來る。
「それは僕のですよ。もらつたんですよ」
「うるさい」と民さんが低く叱りつける。
「それ、僕のですよ。僕がもらつたんですよ。もらつたんですよ」
「うるさい」
「もらつたんですよ」
「うるさいつ」
「僕のですよ」
「うるさいつたら」
――。やがて、彼等も默つてしまふ。何の物音もしなくなる。ランプを消してしまつた家の中は眞暗だ。トタン屋根の上に小さい枯枝か何か落ちる音がする。僕は起きてゐる。起きてゐて、けふのひる間散歩に出て、林間の日だまりの草地に寢ころんでゐたとき、ふいに何とも知れず心が重くなり、永い間起き上れなかつたことを思ひ出す。何だらう、これらのものは。これら一切のものは。
底本:「現代日本文學全集79 十一谷義三郎 北條民雄 田畑修一郎 中島敦集」筑摩書房
1956(昭和31)年7月15日初版発行
初出:「早稲田文學」
1935(昭和10)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「邊」は底本では、「穴」の一点目を欠いた「あみがしら」でつくってあります。これをJIS X 0213規格票「6.6.3.2 漢字の字体の包摂規準の詳細 d)1点画の増減の違い」に該当するものとみなしてよいか判断が付かなかったので、本文は「邊」で入力した上で、その旨をここに記載します。
入力:篠森
校正:川向直樹
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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