子に思はず横を向かせたこともある。
しかし、幾に対して、母は真実どんな心持でゐたのであらう。幾は寡婦になつてからこのかた、老母と二人きりで、出入の多い料理屋をともかく後指をさゝれずにやつて来たほどであるから、柔い中にどこか堅気のある女にちがひないが、かうなつた上は父の顔を汚すやうなことをして貰ひたくないと、母はそれをも考へてゐたのにちがひなかつた。
事実、母と幾との親しさを見て、町の人々も煩《うるさ》く噂はしなくなつたのである。それにしても病身の母があれこれと思ひをめぐらし、努めてそのやうにしてゐるのを眼にとめると、民子はたゞ痛々しいと感ずるのでもあるし、又誰にともなく腹が立つのであつた。
父は民子に会ふと幾分気まづい顔をしたが、それも最初だけであつて
「変りはないか」と短く訊いたぎり、見慣れてゐる渋味のある顔にかへつて行つた。もともと無口な父は、日常でもさう云ふ調子なのであるが、この場合は、又特別の意味があるやうに民子には思へた。しかし、母が以前にもまして物柔かに父に対してゐるのを見ると、民子は折角の母の心遺ひを無にするやうなことがあつてはならないと思ひ、つとめて父には眼を向けないやうにした。とは言へ、父は昔のまゝの気難しい表情の下で、母の心遣ひを十分感じとつてゐるのは明らかだつた。
すぐ下の卯女子は別としてもまだ年もいかない弟たちは、もとより何も知るわけがないのだが、構はず家中を走りまはつて戯れ遊んでゐるのである。それがいぢらしくもあるし、又母の心を汲んでゐるのは自分だけだと云ふ気持も深くなつて、民子は日によると何度となく実家へ帰つてみるのだつた。
後になつて民子は妹の卯女子とも話し合つたのであるが、この心労がなかつたら母の病気もあれほど悪くはならなかつたのかも知れない、ふと思ふこともあつた。
心なしか母の顔に疲れ切つた様子が薄い膜のやうに出て来はじめたのを民子が気にかけてゐる中に、急に発熱して寝ついてしまつた。肋膜が悪いと云ふことから、肺が侵されてゐると言はれるやうになり、それから又一年近くの間、永い病気であつた。
死ぬ少し前松根はどこかでそれを感じてゐたのか、その頃片言まじりに喋るやうになつた軍治が卯女子に抱かれて、庭先から病室をのぞきこみ、姉の口真似で母を呼んでゐたのだが、ちやうど居合せた民子をかへりみて
「あの児が、気にかゝつてね」と言ひかけて止めた。
民子が胸を突かれながらも
「そんな気の弱いことではいけません」となぐさめると、卯女子も傍へ寄つて来て母の顔をのぞいたが、松根は枕の上で顔をそむけた。
病気が重いと云ふことを誰から聞いたのか、それまで一度も家へは足を入れたことのない幾が見舞にやつて来た時には、卯女子だけが居合せた。幾はそれでも遠慮して姿は見せないで女中の口から見舞に来たとつたへて貰つた。卯女子はどうしていゝか解らないので、そのまゝ通じると母は頷《うなづ》いた。
卯女子が幾を見たのはその時が始めてなのであつたが、幾は想像してゐたよりもずつと小柄で、白粉気などはなく、おづおづと卯女子に挨拶して病室に通つたのが、まるで噂に聞いた幾とは思へないほどであつた。
民子は後でそれを知つた時には思はず眉をしかめたが
「多少は悪いと思つてるんでせうよ」と云ひながらも憎めない気がした。
しかし母がある時ふいに嗄《しはが》れ声で民子に呼びかけ、民子がのぞきこむと母はぢつと民子の眼の中に見入つてゐるだけで何も云はない、その奇妙にはりつめた瞬間を、民子は母が幾のことを言ひたくて口に出せないのだ、と感じとつた。
「安心なさいましよ、後は私が見てゐますからね」と民子は涙声で言つた。母は頷いたとも見える様子でそのまゝ睡むたげに眼を閉ぢたのであるが、民子は母がやはり自分の言葉に安心したと信じて疑はないのである。
それだけに母の死後半年位たつた頃、それまで何時出るか、と思つてゐた話しが父から持出された時には、民子は無理にもその日のことを思出してみ、心を引きしめたのであつた。幾を後妻に入れると云ふのである。
沁《し》み沁《じ》みと父の話を聞いてみると、やはり父には父の言分があるので、真向から反対はできないと云ふ気もしたのではあるが、一人になると、これでは母に済まないと云ふ感情が無暗《むやみ》に突き上げて来た。それに、父の話しやうも相談と云ふよりは頭からきめてかゝつたところのあるのが思ひかへされると、自分は現在他家に嫁いでゐる身ではあるが、母のゐない後では自分が母の代りのやうなものでもあるのだからもう少しは遠慮と云ふものがあつてもいゝし、又遠慮されてもいゝほど自分は娘ながらに多少は分別のある年になつてゐるのだ、などと考へられもした。さう思へば話しの嫌な部分ばかりが頭に来て、どんなことがあつてもこれだけは父の言ふな
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