幾の乳を探つたりするのであつた。
 卯女子の嫁いだ所は町から河沿ひの路を山の懐深く溯《さかのぼ》つた村であつて、父、卯女子、幾と云ふ順序で俥《くるま》がゆるゆると列を作つたのであるが、軍治は父の膝から今度は幾の方へと気紛れに乗り移つて、姉の俥に乗るとは言はなかつた。向うの家へ落ちついても軍治は厚化粧をした卯女子をずつと遠くからでも眺めてゐるかのやうに間を置いて見てゐるだけで傍へは近寄らなかつた。披露の席で軍治は急に姉の傍へ坐ると言ひ出したのであるが、それでも幾が軽くたしなめると温和《おとな》しくその膝に来たのだつた。
 鳥羽は地方銀行の町の支店の支配人だつたので、午《ひる》の弁当を銀行へ持つて行くのが軍治の役目であつた。これが軍治にとつては一番楽しみなのである。銀行にゐる時の父は軍治が行くと一寸頷いて見せるきりで別に相手になつてくれるわけではなかつたが、欲しいと思ふ物があつても幾が承知してくれないとなると、軍治はきまつた様に銀行で父にせがんだのである。さう云ふ軍治を鳥羽は決して叱つたことがなかつた。言へば、黙つて封筒に少しの金を入れて呉れるのである。軍治は欲しい物を買ひ、家へ帰つて、それ見ろ買つて貰へたではないか、と云ふ風に幾に示すのであつた。
 鳥羽は浅黒い顔に心持薄い唇をいつも引きしめて大抵の場合渋い苦り切つた表情をしてゐたが、それを恐れなかつたのは軍治だけであつて、他人には随分厳格に見えるのだつた。実際、用談の場合などには、相手の腹を何から何まで見透してゐると思はれる風な鋭い、迫つた口の利き方をしてゐた。かう云ふ点では随分多くの敵を作つてゐたのであるが、一面には親しくなると気が弱く、位置に似合ず信用貸に類したものが沢山あつて、没落して始めてそれらのものが形をなして現はれて来たのである。
 最初、銀行の金で定期に手を出したのが基で、それがうまく行かず、損が次第に大きくなると、それからは自分で自分の穴を掘つて行く有様だつた。
 当然来るべき筈のものが来た。検査役の手で一切が明るみに出てしまつたのである。行金費消は数人によつて行はれたのであるが、支払能力のあるのは鳥羽だけであつて、責任と云ふ点もあり、鳥羽は私財の全部を提供することになつたがそれでも全額を償ふには足りなかつた。明るみに出たとは云へ、やはり銀行の内部だけの話しで、友人の心配もあり、示談と云ふことで済みさうになつた。
 前から話はあつたのであるが、軍治が幾の家名を継ぐといよいよ決まつたのも、又、次男の昌平が遠縁の家へ養子に行くとなつたのもこの期間のことなのである。最早その時から父は自殺の覚悟をきめたのであらうか。それでなければあゝ云ふ風に一人一人の子供の片をつけて置くわけがない、と後では親戚の者も言ひ合つたのであるが、それはとにかく、家屋敷は銀行に引渡すことになつたので、幾はそれまで他人に貸してゐた料理屋の家をとり戻し、改めて旅館をやることになり、鳥羽は今度こそ幾の世話になる筈だつた。
 そのところへ一切を検事局と新聞社に密告した者があつた。検事の家宅捜索に来る前日、鳥羽は幾の家を出て住み慣れた自分の家に行き母の病死した離れで縊死してしまつた。
 それは午過ぎの頃で、母屋《おもや》には休暇で中学の寄宿舎から帰つてゐた長男の竜一や昌平、それに民子も丁度来合はせてゐたのであるが、誰一人気がつかなかつたのである。父は一度裏庭の方へ出て行き、離れへは裏の方から入つたものらしい。最後に父を見たのは昌平であつて、昌平は風呂へ水を汲み入れてゐたのであるが、父はその頭をいつもの癖で捻るやうに触り
「よく働くな」と言つた。それから
「軍治はどこかへ遊びに行つたのか」と訊いた。
 昌平が、知らない、と答へると父は片手を懐に入れたままゆつくり裏の方へ行つた。
 縊死してゐる父を最初に発見したのは軍治なのである。
 遊び疲れて帰つて来た軍治は、幾から父が元の家へ出掛けたと聞いて後を追つたのだが、泥を手足から顔までくつつけてゐる軍治を見ると、兄も姉もからかひ半分に父は此処には来なかつた、と言つた。真に受けてそのまゝ又遊びにとび出したが、「可憐児」の彼はそれだけに父の姿を求めてゐたので、暫くすると又もや引返して来た。今度は、裏庭だ、と云ふので行つて見たがやはり父は見あたらず、大声をあげて父を呼び、答がないので半ば歌のやうな調子から次第に独語のやうにぶつぶつと父を罵《のゝし》り乍ら、その時分にはもう整理した家具|什器《じふき》の一杯に押し込んであつて誰もは入れないやうになつてゐた離れに、なにか悪戯でもする積りで忍び入り軍治は変り果てた父の姿を眼にしたのである。それからの軍治はもう夢中で、兄が走れば自分も一緒に走り、姉が叫び泣けば軍治も亦ついて大声に泣きだすだけであつた。
 幾は鳥羽がその前夜遅く
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