が漸くである有様だから、このやうにしてくれる幾の老母に対しては、何とも云へない感謝の念が湧いたのである。
 後になつて誰かが
「あの年寄りは確《し》つかり者だから」と言つたが、卯女子にはその意味が解るやうで解らなかつた。
 それから又、鳥羽側の親戚が、たゞの家婦《かふ》でならと云ふ条件で漸く承諾したことなど、幾が知り抜いてゐるのに甘んじて来るのは、それで自分の肩身を広くしようと云ふ腹があつてのことだと、見透したやうな物の言ひ方をする者があつた。
 卯女子はさう云ふ風な物の見方を知らなかつた。小柄な幾の肩姿が眼に浮び気の毒な感じがしたが、又何かと自分などには解らない底知れぬことが身のまはりにあるやうな思がした。しかし、姉の民子でさへやはりそれに似たことを言つてゐた。気のせゐか、近所の人との出会ひ頭《がしら》の挨拶などにも、さうとればとれなくもない言ひまはし方があると思はれた。そのことが卯女子の中に一種の翳《かげ》を落し、忘れてゐるとふいに頭を横切つて来るのだつた。
 もつとも、幾はいつも身をへり下つてゐるのであつて、子供達から「小母さん」と呼ばれても不足らしい顔は見せなかつた。大体卯女子は弟達の世話を、幾は台所の方を、と云ふ風に仕事の分け方がいつとはなしに出来てゐたのであるが、時々鳥羽が勤め先から帰つて来て小言を云ふことがある場合に、落度が卯女子にあるとも、幾にあるとも解らないことがあつた。すると、幾はきまつて自分の落度にしてしまふのである。そして又、鳥羽はそれが明らかに卯女子の落度であると解つてゐるやうな場合でも、幾に向つて叱りつけるのだつた。
 卯女子は幾が父に詫びてゐる背後で顔を赭《あか》らめることもあつたし、又父の仕方をありがたいと思ふのでもあつたが、さう云ふ事も重なると、父の態度も外々《そらぞら》しいと思ふことがあるのだつた。しかし、これが反対に自分が叱られてばかりゐたら、又これは腹の立つことだらう、と多少は考へてもみるが、やはり実際にないことには頭が向かないのである。
 料理屋の方は他人に貸してしまつて、蒔は鳥羽家からさう遠くない場所に家を借り、そこに一人住ひをしてゐたのであるが、よく裏庭から顔を出した。彼女が来ると、老寄《としよ》りらしく同じことをいつまでもくどくど繰りかへし話すと云ふので、幾は迷惑がるのであつた。卯女子の前で、二人はそのことで言ひ合ひをしたこともある。幾もその母に向つては腹を立ててみせたりするのである。しかし、二人が心から言ひ合ひをするのでないとは、卯女子にも見てとれた。
 蒔は幾にたしなめられても構はずに卯女子を捕へて、自分がどんなに鳥羽の恩をうけてゐるか又そのためには今までの商売もやめる気になつたのだなどと、いよいよその決心になつたまでの自分と幾との話の模様まで細かく話して聞かせるのだつた。
 卯女子は始めの中こそ気恥しくもあり、当惑しながら聞いてゐたが、今ではその話しにも慣れたやうに、やはり下手に出る相手の仕方にも慣れたのであらうか。それとも、今は記憶も薄らぎはじめた母親が、実は頭の底深く沈んでゐて、その生前見聞きしてゐた幾への反感が形を変へて今頃出て来たのであらうか。卯女子は幾の動作の気に入らない部分が眼につくと、露骨に眉をしかめるやうになつたし、又それがあたり前のことになつて来た。
 弟達については、もともと母の生前から卯女子が面倒を見てゐたのだから、幾が来ても、別にその点変りはないのだが、それでも弟達の寝床をのべてやつたり、末の軍治を寝かしつけてやつたりする卯女子の様子には、以前とはちがつた何かが加はつてゐるのだつた。言つてみれば、これだけは誰にも指一本だつて触れさせないと云ふ感じがあつた。それが今では卯女子の様子に底意地の悪い感じを加へて来たが、当の卯女子にしても、幾にしてもそれを普通のことにしてゐるのであつた。
 しかし、幼くてそれだけに敏感な弟達には、眼に触れる姉と幾との感じが頭の中に特別な形を植ゑつけるのである。もう中学校へ上るやうになつた長男の竜一はとにかく、次の昌平と軍治は、姉や父の口真似をして幾を叱りつけることもあつた。
 覚悟はしてゐた積りだつたが、幾も子供達から「小母さん」と呼ばれたときには、流石《さすが》にあまりいゝ気持はしなかつたのである。誰がさう呼ぶやうに教へこんだのか、幾は考えてみようともしなかつたし、又、それも仕方はないことなのだつた。底を割れば鳥羽から離れ難いからではあつたが、いろいろと親身になつて面倒を見てくれた鳥羽に対し、また鳥羽の妻に対し何故かさうしなければならぬ義理と云ふやうなものを感じてゐたのである。それには商売はやつてゐても親子二人ぎりで、別にこれと云ふ縁辺もない心細さは沁々と身にこたへてゐたのだから、いつそのこと鳥羽に頼り切れば又先々の路は開
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング