手に海をひかえた断崖の上に出る。そこは始めに島へ上るとき見た断崖だったが、上から見るとこんなに高かったかと思われるほどだった。浜の部落の屋根がほとんど真上からのように眺められる。ちょっとした切通しを抜けると、そこから先きはこの島の大部分がそうだが、雄山《おやま》からの傾斜面が海に来てきゅうに落ちこむまでのゆるやかな下《くだ》り勾配《こうばい》の地帯で、榛の木の林がいたるところ目につく。路は傾斜の皺々に添ってゆるく曲り曲りしてつづく。若々しい芽のふきでた林の上に微風があたると、いっせいに柔かく小さく揺れるのが見える。ところどころの赤い色の土くずれ。下方にとってもちっぽけに見える行儀のいい、四角な、少し円味《まるみ》をもって盛り上っている畑地。地面を蹴ってとびさえすれば何だか身体が浮くだろうという気のする、軽い、何かしら匂いのある空気。
「タイメイ」さんは、人をそらさない妙な馴れ馴れしい調子でしきりに僕に話しかける。
「これも何かの御縁ですから」と前置きして自分の身の上話をはじめた。彼には女があると言う。その女は以前島の料理屋で仲居《なかい》をしていたんだが、その女と仲よくなったために、その間《かん》島におれない事情ができて、(「タイメイ」さんは話の間に「その間《かん》」という言葉をさしはさむ癖があった。別に必要でないところにも使うし、また説明しにくいところは「その間《かん》、いろいろの事情がありまして」と、うまく、するするといくらでも話をつづけるのであった)女といっしょに東京に出た。だがその女とも今は別れた。「女は今伊豆伊東町○○町○番地○○方にいて、まだ時々手紙をよこしますがね」と、こちらで訊きもしないのにそんな精《くわ》しいことまで喋って、今度は仕事の話になって、自分は指物師としていい仕事をしたい、幸い島は桑の本場だし、数少くともいい仕事をして暮すにはやっぱり島が都合がよいので、病気のためもあるがそう思って帰ってきた。ところが東京の店の主人が自分をひきもどそうとしてなかなか仕事道具を送ってくれないので困る、というような話をちっとも倦《あ》きさせないで長々と喋るのである。それからまた病気の話になって、
「毎日人に会うのがいやで寝てくらしますよ」
と言う。ぶらぶらしていると島の人は、何だ遊びほけていると言うし、仕事をしようにも道具はないし、叔母さんの家にいるのだが、その叔母は起きているとしょっちゅう何かしろと言うし、ひる日中朝から晩まで床の中にもぐっている。――
「まったく、あなたの前ですが、面倒くさいから死んでやろうかと思いますよ」
と、彼は突然なげやりなほんとうに怒ったような調子で言った。彼の話はなにしろ流れすぎるので、どこからどこまで真《ま》にうけていいかわからなかったが、その瞬間の彼には「タイメイ」さんでもなく、「中島泰明君」でもない、何か別の、孤独に苦しんでいる男が見える気がした。そういえば、出発の前日に時間をうち合わせに彼のいる家を訪ねて行ったが、それは午後の二時ごろだったが、部落から小さいわき路を上って行ったところにある、高手ではあるが山蔭のようなところの、古い傾きかかった家で、彼は雨戸をたてきった真暗い部屋に寝ていた。そして叔母さんという人が彼をよび起すと、彼はのそっとして炉ばたに出てきて、僕といっしょに茶を啜《すす》りながら、永いこと黙っていた。傍には叔母さんが坐っていた。そのときの彼にも、前日に見たいくらか浮調子なへらへら微笑《わらい》がなくて、どこか「恐わい」ものを自分の中に抱いて生きている男の様子があった。
だが、そういう苦渋《くじゅう》な様子はほんのちょっと現われるだけで、すぐまた、元の陽気な馴々しい「タイメイ」さんにかえるのである。今もそれで、彼はひととおりの身の上話を終ると、少し黙って歩いた後で、いきなり僕の傍から二三歩ぎょうさんにとびのいてみせて、
「ずるいや、あなたは。他人《ひと》にばっかり話をさせて。いやじゃありませんか。少しはあなたのことも話して聞かせるもんです」
と言うのだった。
僕はいつの間にか「タイメイ」さんに深い親しみを感じていた。そして、できたら彼と同じ調子で僕の身の上話を聞かせてやりたいと思った。だが、僕という男には自分のことを一種楽しそうな調子で人に話して聞かせることはできないのだった。で、僕はあるすまない感情を覚えながら、彼の話の聞役にまわるよりほかはなかった。もっとも、僕が話しだしたら「タイメイ」さんはきっと中途から自分のことの方へ話を横どりしてしまうだろうが。――
島めぐりの最初の日は三里ほど歩いて阿古《あこ》村という部落で一泊する予定だった。「タイメイ」さんは路々阿古村の娘たちの話をして聞かせた。ちょうど途中の伊豆村というところで大きい風呂敷で包んだ荷箱を背負《しょ》ってくる娘さんに会った。「タイメイ」さんは彼独特の気軽な何だかからみつくような馴れ馴れしい調子で「やあ」と言って、それから何か話しかけた。紺絣《こんがすり》を着たその娘さんは体《てい》よく挨拶して、路の傍の駄菓子屋へ寄った。阿古村にある菓子製造所の娘で、ああやって卸《おろ》して歩くんですよ、とのことだった。また、途中で三人の小娘が荷を背負って行くのに追いついたがこの娘たちは阿古村から専売局の出張所のある神着まで煙草の買入れに来たかえりなのだ。
僕は朝方出がけに檜垣のいる出張所でこの娘たちを見たので覚えがあった。「タイメイ」さんは彼女たちの後姿を見かけると、きゅうに足をはやめた。そして、何かとからかいかけた。まだほんの十四五歳ぐらいの娘たちは顔を見合せて、紅くなって笑うばかりだ。僕は彼女たちがいくらか当惑しているのを見ると、「タイメイ」さんを娘たちから引きはなそうと思って、気づかれないように足を速めたので、間もなく娘たちは後になったが、「タイメイ」さんは時々うしろを振りかえっていたが、ふいにニヤニヤして僕の顔を見上げ、「阿古村というところは村の娘が宿屋へ遊びに来ますぜ」と言った。
やがて、その辺は丘陵の皺が入り乱れて路は石ころだらけの、両側は雑草と雑木林で、その間を深く切りこんで下る急な坂路だが、きゅうに海の真上に出たかと思うほど切りたった崖縁の上を曲ったとき、前方にそれもすぐ眼の下にその阿古村が現われた。そこは島へ来て始めて見るやや平地らしい平地で、それも東側は高い崖なんだが、西方へ向って開けた土地に、ほとんど崖のつけ根から海ぎわまで、低い瓦屋根がぎっしりとつまって、それも強い西風を防ぐための石垣の間々に家々はまるで背をちぢめてかたまり合っているかのように見える。
天気はよかったが、現に今も西風が吹いていて、それもそう強くはないのに、海から打ちつける浪のしぶきが、部落の縁の真黒い岩々の上をうすい煙のように匍《は》っているのが見えた。神着の部落とちがって、ここでは家々もそう頑丈《がんじょう》でなく、何か剥《む》き出しな荒々しい空気が部落の上を通っていた。大きい石で畳んだ路が、日に照らされて艶々《つやつや》して、何だか滑《すべ》っこい工合に町の中へ上っている。しばらくして、僕たちはその方へ降りて行った。
その夜、部落に婚礼があるというので、僕は「タイメイ」さんにつれられて見物に行った。宿屋の外へ出ると、そこは例の石畳の路だ。そこを爪先上りにのぼって行くと、上手から人影が三つ四つ下りてくる。話声で年配のおかみさんたちだとわかる。擦《す》れちがいざまに顔をのけぞるようにして僕たちをまじまじと眺める。瞬間ぴったりと黙っているのだ。そしてやりすごしておいてきゅうにかたまって、夜目なのでよくわからないが袖でのどもとを隠すように前屈みになって、がやがや言いながら下りて行く。また前方から誰か来る。すぐ近くに来るまではそれが男だか女だかよくわからない。どの人影も擦れちがいざまに、透《すか》し見る様子をする。ところどころの角や軒下なんかに、二三人黒くかたまっているのもある。そういう人影は行くにしたがって多くなってきた。婚礼のある家の前あたりには、そこらの暗らがりにどこにでも一人や二人の人影が見えないところはない。みんなひそひそ話している。時々大きい声がするのは、子供がきゃっきゃっ叫ぶくらいのものだ。婚礼のある家は、雑貨店らしく、それらの品物を容れた棚が見える。店にはランプが一つともっているきりで、その下で赭《あか》ら顔のでっぷり肥った男が袴をはいて坐って、時々表の方の人影を意味ありげな笑いを含んだ眼で眺めている。
その家の前にちょっとした空地があり、半鐘を吊した梯子《はしご》が立っている。そこの石垣に身をもたせかけて、僕と「タイメイ」さんとしばらく待っていた。ひる間にくらべるとだいぶ風が出てきたので、寒いくらいだ。僕はそのときやっと気がついたのだが、部落の路には明りが少しもなかった。そして、真上には暈《かさ》のかかった大きな月が出ていた。人の顔がはっきり見えないながらも、とにかく部落の中を歩いてこられたのはそのためだった。ずいぶん待った。婿入りだということだが、その行列はちっとも来ない。いつのまにか僕たちのまわりには十三四歳の女の子たちが集まっていた。前へはけっして来ない。時々、まるで魚の列から一二匹気まぐれなやつが横へ流れをつっ切ってゆくように、一人二人がわざと僕たちの前をすっと通り抜けてはかえってくる。そしてもとの群へかえるとくつくつ忍び笑いをするのだ。中には月をいっぱいうけて顔をさっとつきだして逃げるのがある。その群は向うの暗がりへ行ったり、また僕たちの背後にそっと近よったりした。
「タイメイ」さんは、まだ始まらないから少しそこいらを歩いてこようと言うので、部落の先きの方へ出かけた。僕はどこをどう歩いているのか少しもわからない。ただいちようにうす明い、暗がりのたくさんある部落の間を、一種興奮した心持で「タイメイ」さんについて行った。
路々あのいきなり暗いところから現われてすっと通りぬけるような人影に会う。でも、いくらか慣れたせいで、僕にもそれが男か女かの区別くらいつくようになった。相手を見きわめるようにぬっと来るのは男で、女はたいてい音をたてないようにして前屈みに速く歩く。「タイメイ」さんは、擦れちがうのが男だとけっして近よらないが、女だと他の男がやるようにぬっと傍へよって行く。大部分は顔見知りとみえて何かしら話す。「タイメイ」さんはまるで僕のいるのを忘れたように忙しかった。そしてかならず「○○館に泊っていますからね、遊びにいらっしゃい」とつけ加えるのだった。
とうとう部落外れのようなところへ出た。そこらはいくらか路が高手になっているせいかきゅうに月の光りがはっきりして見えた。桃の花が鮮かに咲いていた。戸を閉めきった、庭先きの地面だけがあかるい家の前へ来ると「タイメイ」さんは、ちょっと、と言いおいて小走りにその家の前へ行き、戸を叩いてもう眠っているのを起した。何の用かと思っていると、「もし、もし、タイメイですよ。たま子さんはもうお休すみですか」と言うのが聞えた。僕は少しあっけにとられた。あんなことを言って娘を夜遊びに誘ったりして家の人に怒鳴られやしないかと思った。するうち戸が開いて、母親らしいのが顔を出した様子だった。別に怒られもしない。何か話してる。
「ああそうですか、おやすみのところをすみませんでした」と、「タイメイ」さんはいやに叮嚀《ていねい》に言って引き返してきた。もうかえるのかと思っていたらまた別の方へつれて行った。そして、やはり寝ているのを外から呼び起して、
「もし、もし、飴玉三十銭ほど明日までにこしらえておいてください」
と言う。家の中からは、もう自家《うち》ではこしらえていません、というようなことを返事している。
「あ、そうですか」と、「タイメイ」さんはまた気がるに引きかえしてきた。そして、
「今の家、けさ来がけに菓子箱を背負った娘さんに会ったでしょう、あの家ですよ」
と言う。それであんなことを言って様子を探ったんだな、と思った。僕は、のこのこ「タイメイ」さん
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