と、安来節は天保嘉永の頃から漸く流行しはじめたものとしてあるから、さう古いことではない。その以前は、この附近に三光節なるものがあつた由で、太田氏の説によると、三光節は唄の調子から判断して「佐渡おけさ」の流れを汲んだものだとされてゐる。つまり、サン子といふ美声の妓が境港にゐて、北国船から「佐渡おけさ」を聞き、これに独創を加へて三光節といふ一種の俚謡を完成し、これがこの地方に流行したのだといふ。三光節は歌詞が卑猥だつたので、松江地方の一般家庭では決してうたはなかつた由、それがいろいろの人によつて、唄ひ方も三味の手も改良され、維新前後になつて、安来町の通称坂田屋といふ料理屋の主人渡辺佐兵衛なるものが、三味線も上手で、さまざまに工夫して、遂に安来節の家元と称されるやうになつた。有名なお糸はその四女である。
私が石見でお糸の安来節を聞いたのは十五六のときだつたが、その頃のお糸は大柄で肉づきのよい、豊かな感じのする中年の女だつた。お糸は明治八年生れといふから、その頃(大正五六年ごろ)四十を一寸越した年配だつたらう。私どもの方では、安来節をお糸節といつたほどで、つまり安来節が有名になつたのは渡辺糸の力だと云つてもよいだらうが、歌舞伎のはじめだと云はれる出雲お国が大社の巫女だつたといふ所伝と共に、このお糸も出雲人を代表する一人であるかもしれぬ。
なほ、安来節にはつきものゝ「泥鰌すくひ」があることは周知の通りであるが、これもいつ誰が考案したものか全く判らぬさうである。太田氏はそれについて、
「或る人は土壌掬ひ即ち砂鉄掬ひが元だと説くが、砂鉄を土壌ともじるのも如何やと思はれる。のみならず、川砂鉄の採取実況を見ても何等の暗示さへ与へられぬ。また高野辰之博士は其著『日本歌謡史』に鰌掬ひは『海老掬ひ踊』から来てゐると述べられてゐるさうだが、鰌と海老とは漁具も漁法も全然違ふのだから、博士の説には賛意を表することが出来ぬ。然るに私は嘗つて渡辺お糸から、『昔は若い衆が鰌を掬つて来て酒盛りをしたものだ。そこで私が思ふには酒の座興に鰌掬ひの生々しい体験を歌に合せて踊つたのが此踊りの始まりではあるまいか』といふやうなことを聞かされたことがあるが、これは確かに郷土の風習に即した見方だ。現に私自身の見聞から云つても、私の郷里では盆踊りが済むと『笠破り』と称して連中は必ず溝川から泥鰌を掬つて来、また公然と野菜物を盗んで来て慰労宴を催したものだが、所謂『男踊り』の鰌掬ひは写実の儘で如何にも野趣に満ちてゐる」
と、述べてゐる。
かうしてみると、安来節と泥鰌掬ひとは中海といふ半淡半鹹の入海の水と、その水に近い田野と、安来といふ港とが自然とより集つてできたといふことがたやすく想像される。特に、水の上をわたつて聞えるときに、荒海でない内海のゆつたりした艪の音と、あまり明晰でない、しかし穏かな円味のある出雲訛りをもつてうたはれるときに、安来節の美しさと豊かさとはもつともよく現れるやうである。
底本:「日本随筆紀行第一四巻 山影につどふ神々」作品社
1989(平成元)年3月31日第1刷発行
底本の親本:「田畑修一郎全集 第二巻」冬夏書房
1980(昭和55)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング