って来て、いきなり頭の上から捲きこむやつがある。こいつでかいなと思うと、迫って来る浪のまん中をめがけてまっすぐ棒のように潜って突き抜けるのだ。でないと、捲きこまれて、水の中で揉まれてしまうのである。
 まあこういう時は岩場は危くて近よれないのだ。しかし、浪の静かな時は岩のところにばかり出かけた。栄螺、あわびを採るのである。あいつの巣を見つけることさえできれば、こんなに楽にとれるものはない。私はいつも友人の二三人で出かけたのだが、めいめいに水中眼鏡をかけて、岩から岩へつたわって行くのであった。岩の側面や下側、海底などの割れ目を丹念にのぞいて行くのである。いるときには、その長細い割れ目の中にぞろっと列をつくってぎっしり並んでいる。あまり沢山だと大きいのだけを採るのだが、それでも一度では手にいくつも持ち切れないし、岩の上へほうり上げては又逆さにもぐりこむのが忙しくて大変だ。ぽかっと浮び上っては口を大きく開ける、又もぐりこむ。時々、友人といっしょに浮び上って、大急ぎで息を吸い込む変な顔を見合うことがあるが、それを笑っていられないほど忙しい。
 あの採りたての栄螺を岩の上に叩きつけて割り、むき身を潮水で洗って生のまま喰べると、柔かく甘味があってうまかった。私は栄螺は煮ても焼いてもあまり好きではないが、この岩の上で喰べるのはうまいと思った。
 あわびは栄螺ほど沢山とれなかった。あわびはもっと深い方にいるのだし、採るには金挺のようなものがいる。それも、急いでさっと差しこまないと、固くへばりついてどうにもならない。小さな鉾で泳いでいる魚を追っかけ突くのは、私も大分やったがうまくいかなかった。章魚ならとったことはある。こちらが見つけた時には、向うもそれと知って、あの長い足をふわふわさせながらそろそろと岩の奥に逃げて行くのである。栄螺を探して、こいつにぶつかると、何だか可笑しくなって仕方がなかった。



底本:「日本の名随筆18 夏」作品社
   1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「田畑修一郎全集 第三巻」冬夏書房
   1980(昭和55)年10月
※「栄螺」は「新風土」1940年8月に発表。
入力:砂場清隆
校正:Tomoko.I
2000年11月4日公開
2005年6月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(h
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