。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめは煩《うる》さがつてゐた鬼倉もたうとう脅《おど》すつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつてゐる気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。
「さあ、殺せ。――うむ、え、さあ。――え、え」
ふいに、徳次はしたゝかに横頬を殴られるのを感じた。容赦のない力が彼の首すぢをつかまへ、又やられた、一つ、二つ。それは、突然うしろからやつて来た。何だか判らなかつた。そして、抵抗するはずみを失ひ、きよとんとして見上げた。
そこには、房一の紅黒い、怒張した顔があつた。いつのまにやつて来たのだらう、徳次はぎゆつと片手で押へつけられたまゝだつた。そして、房一の怒声を聞いた。
「きさま! あれほど云つたぢやないか。何んだこの真似は!」
徳次は気が抜けたやうに、口のあたりをもごもごさせるきりだつた。
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取《くまど》りのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いてゐた。
「どなたか知りませんが、この男が御騒がせしたさうで、御無礼でした」
房一は鬼倉に向つて叮重《ていちよう》に云つた。
相手はさつきから黙つて、房一と徳次の様子を眺めてゐた。さすがに気が立つてゐるらしく、節くれだつた手首を食台の上でこねるやうに動かしてゐた。そして、徳次よりもはるかに手答へのあるらしいこの男が何者か見究《みきは》めようとして、どこか気を配つた様子だつた。
そこに、房一は、酒のために紅くなつてはゐるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはゐるが、稍《やゝ》前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見られぬ線の粗《あ》らさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。
「さういふあんたはどなたで?」
と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつてゐた。
房一はその時、これは思つたより以上に面倒だな、と感じた。この場だけを円めればいゝといふわけにはゆくまい、云ひがかりをつけられるかもしれぬ。それから、徳次をこの場から去らせても後で鬼倉の配下の者に狙はれるかもしれぬ、といふことを突嗟《とつさ》に考へた。彼は腹をきめた。そして、相手の顔に目をつけながらゆつくりと答へた。
「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」
「あゝ、お医者?」
と、鬼倉は意外に思つたらしい。小首をかしげてゐたが、
「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者《もん》が度々御厄介になつとる先生ですかな」
「さうです、小倉組の方ですな」
「や、さうでしたか。それは――」と、鬼倉は目に見えて和《やは》らいだ。
――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」
そんな風におぼえてゐてくれるとは思ひがけなかつた。
うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。
「いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい」
「いや、いや」
と、鬼倉はすつかり他意のない様子で答へた。
そして、食卓に突き立てたまゝになつてゐる短刀を、火箸か何かつかむやうな、無造作な素速い手つきで抜きとると、鞘におさめて腹帯の内側へ入れながら、
「かういふ玩具《おもちや》のやうなものを出して、年甲斐もないことでした」
と、云つた。
その短刀は、房一が入つた時すぐと目を射たものだつた。そして、今の今まで、彼は絶えずその不気味な輝きをすぐ傍にしながら、わざと目に入らない風を装つてゐたのである。とは云へ、彼も亦こゝへとびこんだ瞬間から、一種の無我夢中だつたことは間違ひない。その刃が静かに鞘の中に滑りこむのを目にした時房一ははじめて背筋がひやりとするのを覚えた。
第四章
一
八月末の思ひがけない冷気の後で又暑さがぶり返し、それは永くつゞいて、もうがまんがならないと云ふ頃に一寸色目をつかつた風に凌《しの》ぎ易くなつたが、それも一日か二日で又もやぶり返し、今度は前ほどではないにしても緩漫に、のろのろと、いつまでも同じやうな暑さの日がつゞいて、九月に入り、九月の半ば過ぎてもまだちつとも初秋らしい気配は見えなかつた。あの夏も頂点を過ぎたのだと思はせたやうな草木の黒つぽさも何かの間違ひ恐らく人間の希望的観測といふやつだつたのだらう、その黒い沈んだ色さへ不機嫌さうにいよいよ黒つぽく見えた。
が、或る日切つて落したやうに、例外だといふ風に、一日だけ何だか季節がためらつたやうに暑くも涼しくもない日があつたかと思ふと、次にはあの初秋の前触れである強い南風が吹いた。それは暑いといふよりは何だか蒸《む》し蒸《む》しする、騒々しい、遠く起つたかと思ふとすぐ間近かにやつて来、草木をなびかせ、捲き、吹きつけ、魂をゆすぶるやうな大きな小止みのない風だつた。それは風と云ふよりは何か素晴しく太いものを感じさせる大きな物音だつた。まさにその通り、はじめは笹鳴りをさせ、立木の枝を唸《うな》らせ、戸をがたつかせ、埃を広い幅で駆けさせてゐたものが、しまひにはそれらをたゞ下界の騒々しさといふ中に押しこんでしまひ、圧《おさ》へつけ、自分ははるか中空をもつと高い方を何ものにも遮《さまたげ》られることなく悠々と巨大に傍若無人に吹き抜けて行くのであつた。それは風ではなく季節の通り過ぎる音だつた。やがて雨を伴ひ、あらゆる物の上にたゝきつけ、浸みこませ、溢れさせ、一日か二日でけろりとし、青い空をのぞかせ、それでもなほ切れ切れの雲を、疾《はや》い怪物のやうな想像しきれぬ形の雲をひつきりなく走らせて、おれはまだ完全に通り抜けてはゐないぞ、気をつけろ、と知らせてゐるやうに見えた。
かうして、やつとこさ初秋の爽かさがやつて来た。が又、風だ。生温い、暑さのぶり返しを思はせる蒸し蒸しした空気、雨、それから青空、微風、快い乾いた空気、――こんな風にためらひ、一寸後もどりをし、又急ぎ足で駆け、季節は人々に型通りの見込をさせまいとするかのやうに見える、がその足どりの中には何か大まかな順調さが、あの自然といふものの単純な変化が歴然と現れて来る。人間が見込を外《はづ》されてぽかんとしてゐる間に、いつしか十月に入り、十月も終りに近くなり、あの快い乾いた、いくらか冷えを感じさせる明《あかる》い空気が、毎年のことでありながらかつて一度もなかつたと思はせるほど、又一月や二月ではなく、永久につゞくと思はれるほど、来る日も来る日もつゞいてゐた。
明いうつとりするやうな午後であつた。房一はトラホーム患者の婆さんに処置をして帰した後で、そこらを片づけ、先づ一服といふところで不断かけ慣れた廻転椅子に腰を下し煙草をくゆらしはじめたものの、それもほんの一吸ひか二吸ひで、そのまゝぼんやりと戸口の方を眺めてゐた。いや、眺めてゐたといふのはあたらない。彼は別に何も見てゐるわけではなかつたから。が、とにかく、彼の目の向いてゐる方には見慣れて、そのために見るといふ感じを起させない、あの高間医院といふ字を裏側から透《す》かし出した曇り硝子の二枚戸が片寄せになつて、そこに長方形のかつきりした戸口があり、それは宛かも節穴を通して眺める戸外が一種異様に鮮明に見えるのと同じ風に、その戸口からちやうど石畳の露地のやうになつた両側の築地塀と、そこで一所だけ区切られた表の道路、白い路面の輝き、その向ふに高まつた畑だの、そこに今は気早に黄ばんだ葉をつけ、その聞から紅味のさした円つこい実をのぞかせて、ぽつんと一本だけ立つてゐる柿の木、だのいふ物を何となく鮮明に何となく際立つて見せてゐた。かう云ふと、読者はもう、房一が前にも何度かこゝであの廻転椅子に身をうづめ、眺めるともなく戸口を眺めかがらぼんやり考へごとをしたことがあるのを思ひ出されるだらう。
まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持《かけごこち》があると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまり[#「はまり」に傍点]のいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨《びろうど》の輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深《なじみぶか》さを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示してゐるとも云へた。
房一はさつき、まだ午飯《ひるめし》が終り切らないうちに、あのトラホームの婆さんにやつて来られたのである。ちやうどその時、盛子は房一によそつた飯茶碗を渡しながら、何気なく、ふいに、「早いのね、もう一年あまりたつてしまつたわね」と呟いたのであつた。すると房一は、自分では度忘《どわす》れしてゐたことを云はれでもしたやうにびつくりし、打たれ、感慨深げに、「ふうむ、さうだ!」と答へ、それでも足りないで、どういふわけか受とつた飯茶碗を手の中で廻しながらそれに見入つて、もう一度「ふうむ」と呟いた。若しこの時、トラホームによつて中断されなかつたら、この「ふうむ」はもつと形を変へて、二人の間ではもつと生き生きした会話がつづいたらう。だが、トラホームがその感慨の深まりと、成長を中断した。房一はそゝくさと飯をかきこんで、診察室に出て来た。この婆さんのトラホームは難症であつた。だが、病気ばかりでなく、婆さんそのものも甚だ難物だつた。婆さんはトラホームといふ病名を知らなかつたばかりでなく、云つて聞かせても、まるで悪名を蒙《かうむ》つたかのやうに、頑固に黙りこんでゐたから、治療をうけに通はせるやうに説き伏せるのに骨を折つた。だから、房一はトラホームばかりでなく、婆さんの頑固さにも対抗して、念入りに処置しなければならなかつた。さもないと、次の日から婆さんは通はなくなる恐れがあつたからである。
で、この間に、いくらかそゝつかしいところのある、換言すれば、済んだことにはあまり気をとられない現実的な気質の房一は、たつた三十分前に盛子から聞いたときのあの驚きを忘れてゐた。一先づ用は片づいた。今日は別に往診もなかつた。で、かういふときの癖で、彼のあのはまり[#「はまり」に傍点]のいゝ廻転椅子に身体をうづめ、ぼんやりとした考へに落ちたのである。
だが、あの感慨は、深まりかけていきなり出鼻を折られた感慨は房一の中に何かしら尾を引いて残つてゐた。それは人間の身体が静かになり温《あたたま》つて来ると動き出す虫のやうに、どつかでもぞもぞしはじめ、ひとりでに歩き出し、遂ひにあたりにひろがつて、知らぬまに房一の身心をすつぽりと包んでしまつた。――開業してから一年あまりになる! その一年目はもうとつくに、二月近くも前にいつとなく、こつそり過ぎてしまつた。それは、あの季節の曖昧な変化のためだつたらうか。それなら、房一はそのことを今日盛子に云は
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