の人達にとつても眼を瞠《みは》るやうな事件であつた。房一はめつたにない成功者として目された。地方の新聞には彼の苦学力行を賞讃する大きな記事が出た。
二
川沿ひに細長く続いてゐる河原町の通りは、地勢のせゐでゆるい下り勾配をなしてゐた。所々で屋並みが切れて、そこには茶畑があつたり、空樽が乾してあつたりするかと思ふと、次の空地にはどこの家で使つてゐるのか判らないやうな大きな井戸がその円く肥つた腹のやうな焼物の縁をたゞあつけらかんと日に照されてゐたりした。
その空地の隣りに低い築地塀《ついぢべい》をめぐらした家がある。築地はもう何十年かあるひはもつと前に造つたものらしく、所々の壊れた荒壁を後から後から塗りなほした箇所がそれぞれ違つた土の色をして、それさへ剥《は》がれかゝつてゐる。だがその築地の内側にある家はこれも外まはりに劣らず古い低い平家で、外から見ると、築地の上にそのだゝつぴろい大きな屋根がまるで、伏せをした恰好に見えるきりだ。そんな風にかこまれてゐるので、外部から覗かれる家の有様と云つたら、ちやうどそこだけ築地が中に向つて露地のやうな様子で切れこんでゐる家正面の入口だけだつた。それも、今ではよほど田舎へでも行かないと見られないやうな、広い黒ずんだ欅板《けやきいた》の式台と、玄関の障子の両側には黒塗りの横桟の入つた脇戸までがついた、恐しく奥まつた、人間で云ふと極端に内気な独身の四十男のやうな様子をしてゐた。
この家は上手にある鍵屋といふ旧家の分家だつたが、或る事情でこの一年ばかりの間空家になつてゐた。こんな家を何も空家にして置かなくてもよかりさうなものだが、そして最初二三ヶ月の間は本家の鍵屋から留守番に人が来てゐたのだが、間もなく手がかゝるためか閉めてしまつた。それと云ふのも鍵屋でさへだゝつ広く黴臭い自分の家を持てあましてゐたからである。鍵屋にかぎらず、維新前から明治大正にかけてひきつゞいた田舎の旧家はかなりの地主にちがひなかつたが、それは形だけは鬱蒼としてゐるが幹が空洞になつた大樹のやうなものだつた。鍵屋はもとは名代の酒造りだつたが、当主の神原文太耶になつていつの間にか止めてしまつた。その代りでもあるまいが、神原はその当時この附近では珍しかつた法学士といふ肩書のためか、次第に政治に身を入れるやうになつて、今では歴年県会議長をつとめてゐた。家にはめつたに居ない。それで、昔のまゝに格子造りの鍵屋の表口はいつも半ば閉めたやうにひつそりしてゐた。その母屋《おもや》の横手から裏にかけてはもう何の役にも立たない古い倉庫が無暗みと大きな屋根と、あの風雨にたゝかれて黒ずんだ汚点《しみ》のついた白壁とを突立ててゐるきりだつた。
そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気《ひとけ》が去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つてゐるだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話してゐた。
築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつてゐた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へてゐた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。
「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
房一は白シャツを着た小柄な大工と並んで立ちながら、玄関を眺めて云つた。
やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。
「うむ、何かあ」
と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。
「玄関の手入れをどうしようかと云ふのですよ」
房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
「うむ、さうか。玄関のことか」
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつてゐた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つてゐた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にゐてその云ふことを聞き、することを眺めてゐた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つてゐる房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似てゐた。それはたゞ小さくて、皺が寄つてゐるだけだつた。
「どうでせう。いつそあの障子も脇戸もとり払つて、曇り硝子に高間医院といふ字を抜きましてね、厚い二枚戸でも入れたら――」
「うん」
と生返事をしながら、大工の口にした高間医院といふ名前が耳新しく響いたので、房一は思はず微笑した。
「よし。――さうしとかう」
云ふなり又思ひ出したやうに玄関へ上つて行つた。
彼はもう何度も家の内外を行つたり来たりして、「高間医院」のでき上り工合を綿密に眺め歩いてゐた。新開業の胸のふくらむやうな思ひが、とりとめもない快感が次々と起きて片時もぢつとして居れない風だつた。
最初、房一の頭の中にはペンキ塗りの清潔な外観を持つた医院が描かれてゐた。だが、この長たらしい築地にかこまれた家を一見するに及んで、その考へは棄てざるを得なかつた。今の大工の一言できまるまでに、何度玄関を外から眺めたことだらう。
家の内部でも、房一はしよつちゆう歩きまはつて何度も道具を置き換へてゐた。古風な玄関の広間はそつくり待合室になつた。つゞく二室は板敷にして薬局と診察室ができ上つた。壁ぎはに立てた大きな薬戸棚、油布張りの固い患者用の寝椅子、青いビロードのふつくり盛り上つた廻転椅子、縁枠を白く塗つた医療器具棚の中には真新しいメスや鋏、鉗子《かんし》などがぴかぴか光つて、大事さうに並べてあつた。
房一は廻転椅子にそつと腰を下して、もう朝から何度眺めたかしれない診察室の中を見まはした。間もなくその不恰好な体躯がぢつと動かなくなつた。彼が身動きするたびに現れてゐた一種晴れがましい表情の代りに漠とした思案の線がその顔に現れてゐた。――この河原町に帰つて開業しようと決心したときにどこからとなくやつて来た考へがある。それは彼が河原町を出てゐる間にいつとなく薄れてゐたものだが、思ひ出すたびに徐々に形がはつきりして来た。あの河原町に奥深く流れてゐて彼を何かしら圧迫してゐたもの、それは何故か彼に跳ねかへさせたい心持を抱かせ、同時に身体が熱くなるほどの一種盲目な力を駆り立たせるのが常だつた、それらの捲き旋回する目に見えない風のやうなもの。それは幼時からずつと房一の底から動かし、支配してゐるものだつた。
今彼が得て帰つた「医師高間房一」としての地位は、河原町に対する彼の野気を示すに恰好なものであつた。帰郷以来彼を迎へた河原町の人達の眼に、房一はその証拠を見た。だが同時に、彼が押して得た一歩か二歩を隙さへあれば押しもどさうとするやうな色も見分けた。若し彼が何かの意味で失敗すれば、彼等はすぐに嘲笑に転じ、又あの鈍い圧迫の下敷にして彼の気力を根こそぎにしてしまふだらう。
その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出《まるだ》しにしたまゝで。房一が考へこんでゐるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つてゐるやうであつた。
「ほう、この家鴨《あひる》の嘴みたやうな金具は、こりや何かな。ほう、こりやよく光る小刀だな。こんなに何本も何に使ふのかな」
その子供染みた好奇心に輝いてゐる横顔は、この老人の胸の奥から恐らくその年齢と調子を合せてゆつくりと流れて来る悦びのためもあつたらう。その悦びの源泉はもとより房一にあつた。
「おぢいさん、そんなに立つてばかりゐないで腰をかけなさいよ」
房一が声をかけて回転椅子を押しやると、
「うむ、わしか」
と、道平は云はれた通りに腰を下さうとして、椅子の円々とふくらんだ真新しい天鵞絨《びろうど》の輝きに目をとめると、しばらくまじまじと眺めてゐたが、もう腰をかけるのは止めてしまつた。やはりゆつくりした様子で立つてゐる。
「それぢや、向ふの座敷へ行つて少し休みませうか」
房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつてゐた。その急に日向《ひなた》に出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果《いちじゆく》の樹がぼつさりと茂つてゐた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。
右手の台所の方ではしきりと物音がしてゐた。道平より先に朝早くから手つだひに来てゐる房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしてゐるのだつた。
「これはどこに置きますかね、この漬物桶は。――はい、はい。どつこいしよ、と」
人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつり[#「丸うつり」に傍点]になつたものらしい。だが、道平の声音《こわね》はあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしてゐるやうであつた。
その二人の働いてゐる所にはまだ形こそはつきりとはしてゐないが、内部ではもうこゝだけに見られる家庭生活の気分といふものが生れて居て、その特殊な雰囲気がひつきりなしに流れて、徐々にこの空洞のやうな乾いた家の中にその匂ひを浸みこませて行くやうに感じられた。
道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐《あぐら》をかいた。
だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。
それは言葉にするとこんな風なものであつた。
「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つてゐる方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結
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