これが若し他人だつたら、或ひはかけがへのない一人息子でなかつたら、正文もいさぎよく結着をつけてしまつたらう。「道楽息子」――その一言で済むわけだつた。
 だが、道楽息子にはちがひなかつたが、それだけでは済まないものがあつた。正文はそのはつきりと理解できないこみ入つた或る物が、単にあらゆるものを切りすててもなほ残る、あの単純な愛情だといふことには気がつかなかつたが、漠然とそれに惹かれた。
 正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石《さすが》に親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和《おとな》しく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へ赴《おもむ》きもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連《ゐつゞけ》するのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでゐたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。
 今や事情は一変してしまつた。かつて御《ぎよ》し易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつてゐる正文は殆ど息子の意のまゝになつてゐるのだつた。
 しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられてゐるなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許《こゝろもと》なかつた。だが、手を焼いてゐる。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。
 練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染《なじ》まなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめてゐた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめてゐた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられてゐた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
 練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしてゐた。そこと正文夫婦の住む母家《おもや》との間には一見して判る気風の相違が現れてゐた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられてゐた。
「ふうん、それもよからう」
 練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つてゐた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認してゐたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れてゐた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意してゐた。
 だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げてゐた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしてゐた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情も宛《あたか》もとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。

「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
 練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでゐた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老《とし》よりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
「ふむ、ふむ」
 練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いてゐた。
 房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
「いや、危険はまづない見込だ。だが、何と云つたらいゝか――」
 その時、突然練吉は、房一がさう云ひかけたまゝ当惑した表情になつたのを見た。
「なにしろ、迷ふんだな」
 房一はいかにもそれがやり切れない、と云つた風に吐き出すやうに云つた。つゞけて、
「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」
 実際、練吉の滑つこい気持よくふくらんだ頬には、その時ちらりとした微笑の影がさしてゐた。
「いや、さういふことは人によつてはあるんだよ」
 と、練吉は急いで云つた。
「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」
「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
 練吉は立ち上つた。正文の代りに往診をたのまれてもあんなにいやいやだつたにもかゝはらず、今の彼はまるで打つて変つた気軽るさだつた。

     五

 風はすつかり途絶えてゐた。
 もう日盛りの時刻はとつくに過ぎてゐたとは云へ、半ば傾いてそのためによけい濃くなつた日ざしは河原町の上に、それに沿つてゆるく曲つた川、周囲の山地の上に、こゝぞといふ風に照りつけてゐた。
 そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめてゐるやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしてゐた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来てゐる九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
 練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせてゐた。
「ドイツの潜航艇が又イギリスの商船をやつつけたさうですね。――なにしろ海の底をもぐつてゐて、ぽかつと出てくるんだからねえ、やられた方ぢやさぞおつたまげるだらうなあ」
 練吉はさつきから一人で喋つてゐた。
 ドイツ潜航艇の英商船撃沈はその年の一月頃からはじまつてゐた。日本も交戦国の中に入つてゐたにちがひないが、商船の被害も大したことはなく、日本の艦隊は太平洋方面に出動してゐるらしかつたが、南洋占拠をのぞいては格別報道されることもなく、したがつて欧洲大戦による日に上昇する好景気の他には、戦争をしてゐる気分は殆どなかつた。
 とにかく、それは遠い向ふで起つてゐることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒《あ》ばれまはつてゐるんだつてね。それがちつとも捉《つか》まらないと云ふから面白いねえ」
「うむ、うむ」
「それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君」
 練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
「――さうだな」
 房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられてゐた。

 老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めてゐる農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしてゐたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。
 しかし、さういふ身体の忙しさより何よりこたへたものは、房一にとつては肉親の大病を診察するといふはじめての経験だつた。
 彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つてゐた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつてゐることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察してゐる間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしてゐる道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つてゐた。
 だが、房一はそれを感ずれば感ずるほど、何かしら云ひがたい不安を覚えた。それは、病症の不明な患者に対するときに間々あるやうな技術的な不安ともちがつてゐた。一種肉体的な恐怖、とでも云ふやうなものだつた。
 父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつてゐる、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めてゐるのを感ずる。はだけた胸に生えてゐる一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥してゐるために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色の痣《あざ》のやうにぽつりとひろがつてゐる乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れてゐる「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れてゐたもの、隠れてゐたもの、眠つてゐたもの、この露《あら》はになつた肉体と房一との間に結ばれてゐるあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だか後《うしろ》めたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。
 彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。
 盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでゐた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはり[#「つはり」に傍点]だつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意してゐる様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではゐないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはゐないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。
 房一は慌てて、診察にかゝつた。その後で彼は云つた。
「どうもおれは、身近かな者だと平気で診られないんだね」
 済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべてゐた。それは何だか、嫌な仕事をさ
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