ごとに聞かれてうんざりしてゐる医者となるまでの経歴を、相沢の問ひに答へてぽつりぽつり話さねばならなかつた。
「あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね」
「まあ、生れ故郷ですから」
「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つてゐたもんです」
「はあ、それは――」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
「それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし」
「いや、それが――」
 と、相沢は口ごもつた。
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
「時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつてゐたと聞いてゐましたが」
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
「分家の当主は今は、若い人の代で、たしか喜作といふ筈ですが、あれも随分永いこと県外に出てゐるさうですな」
「さうです。農林学校の先生だとかをしてゐられると聞きましたが」
「もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると」
「さあ、くはしいことは判りませんね」
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
「いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが」
「はあ、なるほど」
 この時ふと、房一は、何故こんなに相沢が立入つて訊くのか、といふ疑ひを持つた。だが知り合ふとすぐまるで親類か何かのやうに世話を焼きたがる河原町の人達の癖は、房一も家の造作のときにも、その後にも一再ならず見て知つてゐた。
 間もなく房一は別れを告げ、庭前で又馬の前に立つて二三の話をし、相沢の家を立去つて行つた。相沢のやうな家を患家に持つことは、十軒もの小患家を得たに匹敵すると、ひそかに満足しながら。そして、今日のもてなし方から考へると、医者として十分好意を与へたにちがひない、といふことにも満足しながら。

   第二章

     一

 河原町の部落がそれに沿つて長く伸びてゐるあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれてゐるが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつてゐるので、それにも各々ちがつた名がついてゐたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。
 大した川でもないのにこんな風に所々でいろんな名があるのは、もとより必要があつて生じたのであらうが、一面に於てはそれぞれの水域に住む人達の生活がどんなに川と密接に結びついてゐるものかを語り、同時に、吾々が自分の子供に思ひ思ひの愛称をつけるやうに、それぞれの呼び方の中に彼等の川に対する愛情を示してゐると考へられる。で若し誰か川好きな男、たとへば徳次などに向つてこの川をつまらぬとでも云はうものなら大変である。
「水はこんなにきれいでたつぷりしてゐるだらう。鯉だつて鮒だつて、鯰《なまず》も、ハヤも、鰻《うなぎ》、アカハラ、それに鮎は名物だらう。こんなに沢山魚のゐる河が他にありますかい」
 その通り、近くに似たやうな河はいくつもあつたが、それは鮒がたくさんとれると思ふと鮎がさつぱり駄目だし、うす濁りがしてゐるし、ずつと先の木ノ川は河幅こそ広く水もたつぷりしてゐるがあんまり大きすぎてよほど上流まで行かないと鮎をとる手立てがない、してみるとやはり、この吉賀川は彼等の口にするごとく「名うて」の川にちがひなかつた。
 徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つてゐるのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついてゐる時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つてゐるのを認めるだらう。水に隠れてゐる円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでゐる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中
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