人慣れた愛想のいゝ微笑をうかべてゐた。それは水面にできた波紋がゆるく輪をひろげるやうに、彼の厚い醜い唇からはじまつてしだいに、顔全体をつゝみ、つひに容貌の醜さを消してしまふものであつた。
「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」
練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がゐるな、と思つたくらゐですからな」
練吉は今更のやうに、あらためて房一の様子を、その新調の自転車や医者らしい鞄などに目をやつた。すると、それらは今新しく練吉の前に彼の持物と同じものを感じさせ、更に、今まで耳にしてゐたものの、つひぞ気にもとめずにゐた医師高間房一といふ人物がそこに忽然と姿を現してゐるのをいやでも見なければならぬと感じさせた。それは何故かどこかで練吉の自負心を傷つけ気を苛立たせるものだつた。
じつさいに、房一が練吉のことを想像してゐたのと反対に、練吉はたつた今坂路の上から見慣れない、何となく不様なだがともかく彼の注意を惹かずには居れない種類の男がゐるのを目に入れるまでは、全く房一のことは毛ほども考へたことはなかつた。したがつて彼はひどく驚かされた。次には興味を持つた。練吉はその甘やかされ、順調に育つた境遇からして、他人との手厚いつき合ひの心持などは持たうとしたことがなかつた。大石医院の若医師としての境遇は、彼が望んでなつたものでもなければ、苦心して得たものでもなかつた。彼はたゞさうなるやうに生れついた。それをさまたげる事情は何一つなかつた。この自分では大して好んでもゐないし、やむを得ずなつて、やむを得ずまはりから、尊敬を受けてゐる位に考へてゐる医師としての職業は、しかし内実は彼の虚栄心を無意識のうちに支へてゐるものだつた。何故なら他の誰でもがこの町で医者になることはできなかつたし、彼自身は大して好んでゐなくつてもなれたのだ。
だが、さういふことは練吉は今まで考へたことがなかつた。その必要もなかつた。それは単に一つの習慣、彼自身のと云ふより、河原町に張りわたされてゐるあの根深い習慣のおかげだつた。
「これからどちらへ?」
「杉倉まで――」
「往診ですか」
ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
「さうです、一寸」
房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞《は》にかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
と、思はず房一の微笑に釣りこまれて、練吉は気がるな笑顔になつた。いつのまにか、かた苦しい「わたし」から「僕」といふ云ひ方になつたのも気づかないで。
「それでは、又あらためて伺ひます」
「どうぞ」
「や、失礼、おさきに」
練吉は軽く頭を下げながら、相手の房一がいきなり直立不動のやうに足をそろへたのを見た。
彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつてゐた。
「をかしな男だな」
練吉はふつと思ひ出し笑ひをした。それは微笑と云ふよりは、気の好い、何だかすべつこい、いくらか相手を軽蔑したやうな表情だつた。
房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持|阿弥陀《あみだ》に被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つてゐるところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又|疳《かん》の強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
さうだ、あれは見覚えがある。練吉は幼《ちい》さい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼を磧《かはら》のまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしてゐる青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞《やまひだ》にうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さう
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