かたま》りのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれてゐたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
 口を切つたものの房一は頭の中でとまどつてゐた。あんなに考へてゐた言葉が今急にどこかへ消えてしまひ、何を云ひ出したのか後をどう云つたものか判らなくなつてしまひさうに感じた。彼はかすかに汗ばみ、そのどちらかと云へば醜いむくれ上つた眉肉や厚い唇が力味を帯び紅ばんで来た。
「それに、永い間この土地をはなれてゐたもんですから、土地の事情にもすつかり疎《うと》くなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つてゐる次第ですが――」
「はあ、はあ」
 正文は黙つて聞いてゐたが、このときふいに今まで前屈みに折りたゝんでゐた背をぐつと伸したやうに思はれた。そして、あの噛みつくやうな眼がぎろりと房一を一瞥した。
 房一は無意識に微笑しながらその眼を迎へた。正文はそこに、医者といふよりはまだ世間慣れのしない弁護士のやうな男が、土饅頭を思はせるやうな円まつちい顔を一種|恭々《うやうや》しげな面持でかしこまつてゐるのを、その厚いふくれた唇が不器用な微笑を浮べてゐるのを見た。それは何となく可笑《をか》しみのあるものだつた。
 思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。
 房一は手答へのないのを感じた。
「どうぞよろしくお願ひします」
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
 向きなほつて云つた正文の声音は穏かではあつたが、その言葉とは不似合な強《し》たゝかな調子があつた。
「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」
「はゝあ」
 房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
「さやうさ。当今では大分|世智辛《せちがら》くなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」
 房一は苦笑した。
 そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしてゐた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。
「ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「はあ、見て参ります」
 彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」
「往診? ふむ、ふむ」
 正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いてゐた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
 稍意地の悪い、きびしい調子であつた。

 房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでゐるのを見つけた。
「おい、今高間君が来てゐたんだよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋《おもや》の方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安
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