いちじゆく》の樹がぼつさりと茂つてゐた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。
 右手の台所の方ではしきりと物音がしてゐた。道平より先に朝早くから手つだひに来てゐる房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしてゐるのだつた。
「これはどこに置きますかね、この漬物桶は。――はい、はい。どつこいしよ、と」
 人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつり[#「丸うつり」に傍点]になつたものらしい。だが、道平の声音《こわね》はあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
 時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしてゐるやうであつた。
 その二人の働いてゐる所にはまだ形こそはつきりとはしてゐないが、内部ではもうこゝだけに見られる家庭生活の気分といふものが生れて居て、その特殊な雰囲気がひつきりなしに流れて、徐々にこの空洞のやうな乾いた家の中にその匂ひを浸みこませて行くやうに感じられた。
 道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐《あぐら》をかいた。
 だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。
 それは言葉にするとこんな風なものであつた。
「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つてゐる方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結構だ」
 胡坐をかいた道平は今膝小僧までまる出しにしてゐた。それも日に焦げてゐる。
「おい、お茶を入れてくれ」
 と、房一が台所に声をかけた。
 黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
「おや、いつのまにそこに来てなさつたかね。お茶ですか、上げますとも」
 体が、と云ふより声が引つこむと、代りにそこに姿を現したのは盛子だつた。すると、うす暗い台所の板敷の上に眩しいやうな、うすい葉洩れ日のやうな気配《けはい》が立つた。
 茶器を持つてこちらへ近づきながら、盛子自身も何となく眩しいやうな目つきをしてゐた。それは彼女に溢れてゐる若さだつた。その声で想像させたやうな細身ではなく、むしろ中肉だつたが、背が高いので一種の優しみが現れてゐた。
 控へ目に坐つて、注いだ茶碗を盆の上に揃へると、
「はい」
 と云ふ、思ひがけないほどはつきりした声で差し出した。そして、又淡泊なさつさとした足どりで台所の方へ去つた。
「開業日はいつかの」
 道平はゆつくりと首を動かして訊いた。
「別に何日からでもないんです。今日からでも――」
「挨拶みたやうなことはもうしたかの」
「まあ、葉書でざつと町内に出しときましたがね」
「ふうん」
 道平は納得したやうにうなづいたが、又ゆつくり身体を坐りなほすのと一緒に、
「それは、まあ、都会風でいけばそれでいゝわけだが」
 房一は目を上げて注意深く道平を見た。
「あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね」
「いかんと云ふわけもあるまいさ」
 道平はまるで大きな輪がゆつくり廻つてゐて、その一点の結び目が眼の前に現はれたときにやつと口を開くかのやうであつた。
「まあ、――上の町の大石さんとこ位は行つとくのもよからうが」
「なるほどね」
 又とぎれた。
「なにしろこんな狭い田舎ぢやから、何事もねつう[#「ねつう」に傍点]やる。それをやらんと後がうるさい。自然評判を落すといふことも起るかな」

 道平はそのまゝ夕食を招《よ》ばれて、ゆつくり腰を落ちつけてゐたが、夜ふけ近い頃になつて、ひよつこり
「さあて、帰るかな」
 と云つた。
 義母は明日も片づけ仕事が残つてゐるので泊つて行くことになつた。
「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」
 しきりにすゝめられたが、道平は縁側に出て、いつのまにか下してゐた着物の裾
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