房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいてゐた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じてゐた。
だが、まつすぐに話を進めよう――彼がその話を嫌がつたのは、人によつては精神の分裂を招き易い、あの二重な意識と名づけるべき鋭い意識のバネのせゐだつた。読者は房一の幼時から彼の額に現れた一本の深い皺と、彼がしばしば陥る沈思の様子を記憶されてゐるだらう。空想家ではなかつたにもせよ、彼には事態の真底を見抜く直観力があつた。恐らく誰もまだ気づいてゐないうちに、彼はその人の持ち上げにかゝつた所に迂散臭《うさんくさ》いものを嗅ぎつけた。たとへ思ひがけないはずみで捲きこまれたことだつたにしても、彼は自分の中に一脈の危険さを、彼を生かすのもそれだが亡《ほろぼ》すのもそれだ、といつた風なものを感じてゐた。それは別にはつきりとしたことではなかつた。が、少くとも彼の意識の穂先には微妙にふれてゐるものだつた。
だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらゐの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げてゐた。
房一は近い往診の帰りに河の石畳みの土手をつたつて歩いてゐると、広い河原を前にし土手沿ひの小高い畑地の端に立つて、特長のあるごつごつした頭骨を露《あら》はにし、両手を帯の前にはさんだまゝ、殆ど反《そ》り身に立つたまゝあたりを眺めてゐる男を見た。
紛《まが》ふことなく、それは神原喜作だつた。
房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つてゐた。
喜作の方でも、房一の来るのを認め、
「やあ。先日はどうも」
と、微笑しながら頭を下げた。
今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。
「閉口でしたな」
房一が云ふと、喜作は突然びつくりするほど大きな口を開けて笑つた。
「いつこちらへお帰りでしたか」
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
「ちつとも知りませんでしたよ」
「なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼してゐたんです」
あのことだな、と房一は思つた。訊いてどうかな、とは感じたが、相手があまりさつぱりしてゐるので、
「訴訟があるさうで、面倒なことですな」
と、云つた。
「さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つてゐますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう」
「さうですか」
答へながら、他人ごとのやうにずばずば何でも話してしまふ喜作の飾り気のなさに、驚いてゐた。
一息に話してしまふと、喜作は依然としてさつきのまゝの姿勢で、いかにも気持よささうに、あのごつごつした、年に似合はず毛のうすい頭をむき出しに日にさらし乍ら、遠く河下の方に開けた空と、その下に低く横はつてゐる丘陵地に目を放つてゐた。
「それで、近く片づきさうなんですか」
「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩《うる》さがりもせず答へた。
「まだなかなかでせう。永いこつてすよ」
房一は思はず笑ひ出した。
喜作と別れてから、房一は歩きにくい足もとの円石に目を落して何となく考へこんだ風に歩いて行つた。
「永いこつてすよ」――そのきつぱりとし、そのためにかへつて本当の永さを、あのつきることのない、何かしらにみちた前方の日々を現してゐるその云ひ方が、ひどく房一の頭に残つてゐた。
それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見てゐたのだらう。
[#地から1字上げ](昭和十六年四月)
底本:「筑摩現代文学大系 60 田畑修一郎 木山捷平 小沼丹集」
1978(昭和53)年4月15日初版第1刷発行
1980(昭和55)年7月30日初版第2刷発行
初出:「医師高間房一氏」砂子屋書房
1941(昭和16)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくって
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