含んでゐた。
「をかしいから笑つたのだ」
「なに?」
 と、下の男は睨み上げた。
「をかしいからとは何ごとだ。火事だといふから手伝ひに来たんぢやないか、そして溝に落ちたのが何がをかしいんだ」
 相手はしばらく黙つてゐた。だが、場所が高いのと、柵の中にゐるためか、落ちついて答へた。
「こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない」
「なに、消防演習?」
 と、下の男は形をなほした。
 この押問答がはじまつて以来、ちやうどそれが高張りの下の明さのためもあつて、あたりの注意はそこに集り、急に静まり、ために、そこが宛かも上と下との代表点といつた際立ちを現してゐた。男のうしろにはたくさんの人がつめかけてゐた。
 あたりには急に殺気立つた空気が感じられた。恐らく、暗やみで途惑《とまど》ひし、右往左往したやり場のない興奮がはけ口を見出しかけたからだらう。男は、はじめの滑稽な様子にひきかへ、今案外な落ちつきと鋭い怒気を見せてゐた。多分、たゞならぬ空気を察したのだらう、構内ではいつのまにか焚火が消され、高張提灯も取り去られて、柵をへだてて二人の男が対峙してゐる所にだけ一つ残つてゐたが、下方ではしだいに持込んで来た提灯のためにかへつて前とは逆に明さが行きわたり、土手に肩をいからして立つてゐる男を下から照し出してゐた。
「あ、神原の喜作さんだ」
 と、突然房一の肩を押へて云つた者がある。いつのまにか、練吉が傍に来てゐたのだ。彼は酒の酔ひもさめたと見えて、興奮し、そのために稍|強《き》つい、輪郭のはつきりした顔立ちになつて、一心に土手の方を注視してゐた。
 土手に立つてゐる男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家してゐる鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしてゐてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――
 だが、その間にも土手の押問答はつゞけられた。
「消防演習だ? ふむ、よからう。そんなら訊くが、かうしてみんな集つて騒いでゐるのは何のためだか知つてるか」
 相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつてゐた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつてゐる男のうしろに出張所側の連中がかたまつてゐた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけてゐた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
「おい、やつは所長だぜ。まだ新任で、来たばかりなんだ。――行かう!」
 何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がゐた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫してゐた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
 が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。
「何しに来た!」
「何しに来た?」
 と、いきなり突きを喰はされた練吉は、神経的にさつと青ざめながら、反問した。
 喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
 相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
「君達は一体何者だ!」
 喜作は、
「何者かつて云ふが、そもそもこゝで半鐘をたたいたから集つて来たんだぜ」
 と、案外冷静に云つた。
「いや」
 と、房一が進み出た。
「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」
 房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。
「それは、小規模な演習だからして居らん」
「ふむ、さうすると――」
 さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつてゐた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟《とつさ》に身をひるがへして土手づたひにその方へ走つてゐた。彼は一
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