やがみこんだのを見ると、又一目散に戻つて来、まはりの草の中を嗅いで見、二人を眺め、一向に動きさうもないと知ると、石ころの上に腹を着けて長い舌を出した。が、急に尻尾を振つた。二人が彼の方を向いたからである。
「あんたの犬かね」
「さうだ」
徳次は何かしら話に困つてゐた。で、彼は真面目な熱心な目つきで犬を眺めた。ところが、この犬まで普通のものとはちがふやうに思はれた。それは確かに「医者の犬」だつた。短い白毛の生えそろつた地はちつとも汚れてゐなかつた、茶斑の所は艶があつて上等の織物の模様みたいであつた。そして、全体に清潔でゆつたりしてゐた。
が、徳次は話したいことが一杯あつた。彼には女の子ばかりが四人もあつた。一人ゐる男の子はまだ赤ん坊だつた。それらは全くうようよと、徳次の知らない間に生れて来たやうな気がした。家の中を葡《は》ひずりまはり、土間にころげ落ち彼の足にとりつき、彼を「お父ちやん」と呼んだり、「お父う」と罵つたりする。彼は子供を可愛がつてゐるのか煩《うる》さがつてゐるのか、自分でも判らなかつた。彼にはあらゆることが矍鑠《くわくしやく》とした老船頭だつた父親がいつの間にか耄碌《もうろく》してよろよろ歩くやうになつたこと、一番上の姉娘が或る時ひどい熱を出してから頭が変になつていまだに「八文」であること、何の気なしに押した無尽の請判で百円といふ大金を支払はされるのだと聞いて小半年の間世話人のところに文句を捻《ね》ぢこんで手こずらせたこと、それらすべてのことが徳次には一体どういふわけで起きたのかさつぱり判らなかつた。それは漠然とした年月だつた。たゞ何かしらこみ入つて、一杯つまつて、過ぎてしまへば片つぱしから一向に手答へのないものになる年月だつた。それをどんな風に話したらいゝものだらう。
徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れてゐるのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つてゐるやうに思はれた。
むかしからおれとこの人とは仲よしだつた――それは押しかくすことのできない悦ばしさだつた。
思はず時間がたつてしまつた。房一は腰を上げた。前脚の上に顎をのせて長々と寝そべつてゐた犬は急に起き上つて身ぶるひした。徳次は、房一の往診の時間を大分遅らせたのにやつと気づいた。
「すまんでしたな、長話をして」
「いや、そのうち又ゆつくり話さう」
さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えてゐた草を片手で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでゐる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにゐることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。
「先生!」
それは初めて口に出す言葉だつた。
房一はふりかへつた。
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
房一は目顔で笑ひながら何度もうなづいた。やつと安心したやうに、徳次はしばらく見送つてゐた後で、大股に自分の船の所へもどつて行つた。
三
川沿ひから分れた路は段々になつた切株だらけの乾田に沿つて、次第上りに、両側はゆるやかな山合ひに切れこんでゐた。
房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つてゐた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明《あかる》く、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
「ジョン、そら! ウシ!」
房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。
「ウシ! ウシ!」
又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
犬は横へとびこんだ。だが、匂も嗅がず、草の中から頭を出して、房一の方をしきりと眺めながら同じ方向に歩いてゐる。
「はゝ、知つてゐるな。よし、よし何もゐやしない」
だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら
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