とてはない、この広濶な坂の一本路で、二人はいやでも顔を見合はさずにはゐられなかつた。近づいて来る自転車の車体には房一の往診用の黒革の鞄と同じ格好のものがとりつけられてゐた。房一には相手が誰かといふ見当が今は疑ひなくついてゐた。恐らく、先方にも房一が判つたにちがひない。
 二人は間近かで眩《まぶ》しげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「失礼ですが、もしか、あなたは高間さんではありませんか」
「さうです」
 二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。
「あなたは、多分――」
 房一が云ひかけると
「大石練吉です」
 神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つてゐたんですが、失礼しました」
「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出てゐたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つてゐたんですが」
 練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでゐた。
 練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀《かみそり》があてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出てゐた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
 それは房一がこれまでに漠然と想像してゐた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつてゐたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
「わたしの方でも、もう一度こちらから上つて、お目にかかりたいと思つてゐたところなんですよ。――今日はこんな所で、じつさいいゝ案配でした」
 房一は持前の
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