だらう、それから自分はどんな風に話を切り出したものだらう。「はじめまして」もをかしい、二人とも全然知らぬ間ではないのだからな、「しばらくで御座いました」と云ふかな、これもどうも変だな、――それからまだ言葉にはならない、いろんな言葉を頭の中で云つてみた。相手が頭を下げる、こつちもお辞儀をする、そんな恰好がひとりでに頭の中を横切つたり、消えたりした。房一は漠然と興奮してゐた。
だが、当の大石医院へ行くまでに何軒かの家に寄り、何人かの男に会つて口を利いてゐる間に、房一は或る気持の変化を感じはじめてゐた。それはかうだつた――彼は自分の生れたこの土地については、一から十まで知つてゐるつもりでゐた。河原町といふものが、そこに住んでゐる人達が漠然と一かたまりになつて、云はば机の抽出に蔵ひこんである手帖のやうに、すぐその所在を確められるものとして感じられてゐたのだが、今日はじめてその一人一人にあたつてみると、今まで考へてゐたものとは可成りにちがふ何かしら別のものが思ひがけない感じで房一の顔を打つた。云つて見れば、彼は河原町の住民になつたのを感じた。これにくらべれば、彼が今まで感じてゐた河原町そのものは単にその外形であり、彼はこの町の住民ではなかつたとさへ思はれるのであつた。
今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつてゐるのを感じた。それはまだ形ができてはゐなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつてゐなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。
今、彼の目の前には大石医院の塀づくりの家が立つてゐた。その家は彼が借り受けたあの古びた家とふしぎに似通つてゐた。ちがふのはもつと大きやかで、手入れのよく届いてゐることだつた。築地の壁土は淡黄色の上塗りが施され、一様に落ちついた艶を帯びてゐた。そして、玄関に向ふ石畳は途中二つに分れ、右手は別建の洋風な診察所につづいてゐた。房一は瞬間どちらへ行つたものかと思つたが、左手によく拭きこまれた玄関の式台を見ると、まつすぐその方に進んだ。
二三度声をかけたが返事がなかつた。すると植込みの向ふの診察所の入口に白い服を着た看護婦の紅らんだ顔がのぞいて、すぐに引きこんだ。と思ふと、どんな風に廻つたのかしれ
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