になつてゐた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはゐられなかつたのである。
「あのね、何ですよ――」
と、云ひかけたまゝ、相沢の黒味の多い眼はぢつと房一の顔をのぞきこみ、云ひかけたものがその中で煙つてゐるやうな表情をした。
「はあ」
と、房一は自然と紅黒い顔をひきしめた。相沢は随分永い間、それこそ房一がうんざりするほど永い間こつちをのぞきこんでゐたが、
「いや、そのうち。――ぜひ御相談があるんですが。――そのうち、一度来ていたゞいて。いや、私の方から出かけませう。や、又――」
と、さつき目にもとまらぬ速さで腕にさはつたときと同じく、軽くすつと身をひくやうにしたかと思ふと、もう背を向けてそゝくさと葭子張りの便所に入つて行つた。――
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じてゐたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつてゐた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残してゐた。
「あの訴訟はどうなつたのかね」
と、房一は小谷に向つて訊いた。
「なに、訴訟?」
この時、練吉が又小耳にはさんで訊き返した。が、明かにそれはさつきの小耳訊きとは様子がちがつてゐた。殆ど一人で盃を傾けてゐたせゐもあるが、つい今まで沈んでゐた練吉は僅かの間に一足とびに深い酔の中に入りこんでゐた。
「どこの訴訟だ。なに鍵屋、うん、相沢か」
練吉の額は今青いと云ふより磁器のやうな冴えた白さに変つてゐた。目瞬きはぴつたりととまり、線を引いたやうな切れ目が深く長く、宛《あたか》も部厚い眼鏡そのものに入つたヒビ割れのやうに見えた。そして、
「なあんだ、まだ訴訟してるのか」
と、無邪気に、呆《あき》れたやうに云つた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
「まだ? ふん! よせ、よせ。阿呆らしい」
練吉は顔をしかめ、手を振つた。
「おれは!――」
と、何か威勢よく云ひかけたときだつた。小谷は急に聞耳をたてた。小谷ばかりではない、房一も――半鐘が鳴つてゐた。たしかに! それは、はじめ三連打を二度ほど、ちよつと途切れ
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