間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦《あせ》つた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつてゐた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはゐたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつてゐた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしてゐるかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つてゐたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つてゐた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけてゐたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へてゐたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた! 今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
 すると、間もなく診察室の方から急ぎ足で出て来た房一は、道平を見るなり、
「ほゝう!」
 と云つたまゝ、もの珍らしげに、しばらく眺めてゐた。それから、相手にその意味が判るやうに微笑をし、目くばせをしながら、
「だいぶ、様子が変りましたな」
 と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
「おう、これか」
 道平は顎髯を剃り落してしまつてゐた。
 昨年の冬あたりから、何
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