れるまではすつかり度忘れしてゐたのだらうか。いや、決して! 彼ははつきり覚えてゐる。去年の九月にあすこの中庭の土塀のわきで無花果《いちじゆく》が色づいてゐた、それは今年も同じやうに色づいた。ちがつたのは、今年はうんと実がなつて盛子と二人では喰べきれなかつただけである。あのとき老父の道平と二人で坐つた座敷はまだがらんとして落ちつきを欠いてゐたが、今は別に家具がふえたわけでもないのに、何となくしつとりし、人の匂ひが浸みこみ、あのときのやうに乾いてゐないだけである。それは何も変つてゐないことである。同時に大した変り方である! 吾々は暦の上で立春だの立秋だのいふ区別をして、それを紙片にはつきり判るやうに印刷してゐる。だが一体、春はいつやつて来るのだらう、冬はいつやつて来るのだらう。温かつたり寒かつたり、暑かつたり涼しかつたり、それはとりとめもない曖昧のうちに何かしらどんどんやつて来、どんどん去つて行くのである。吾々は紙に印刷した日附だの文字だのでさういふものを捉へようとするが、捉《つかま》つた試しはめつたにない。それなら、房一が盛子の何気ない一言ですつかり感動してしまつたのはどうしてだらう?
 彼が感動したのは他でもない、決してつかまらない年月といふもののふしぎさ、その尨大な、とりとめもない曖昧さ、しかもなほ決して空虚ではない、いや空虚とその反対のものが一杯にまざり合ひ、犇《ひし》めき、微妙につながり合ひ、その或る時は軽快に、或る時は重々しく、何かはつきりしてゐるかと思へば混乱し、――さういふ得体のしれない経過のせゐだつたのである。
 たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れてゐるし、房一の身辺でも紛《まが》ふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現してゐた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたこと
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