たに居ない。それで、昔のまゝに格子造りの鍵屋の表口はいつも半ば閉めたやうにひつそりしてゐた。その母屋《おもや》の横手から裏にかけてはもう何の役にも立たない古い倉庫が無暗みと大きな屋根と、あの風雨にたゝかれて黒ずんだ汚点《しみ》のついた白壁とを突立ててゐるきりだつた。
そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気《ひとけ》が去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つてゐるだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話してゐた。
築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつてゐた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へてゐた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。
「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
房一は白シャツを着た小柄な大工と並んで立ちながら、玄関を眺めて云つた。
やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。
「うむ、何かあ」
と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。
「玄関の手入れをどうしようかと云ふのですよ」
房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
「うむ、さうか。玄関のことか」
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつてゐた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つてゐた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にゐてその云ふこ
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