た房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでゐる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでゐるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつてゐるのを感じた。
気がつくと、房一はさつきよりもぽつと明い、青味を帯びた中を走つてゐた。いつのまにか月が出たのだ。鉄橋を渡つて、町の中に入つた。月明りはこの人気の少い町一杯に輝いて、うるんで、物の形を一様な柔い調子の中でくつきりさせてゐた。
が、自分の家の前あたりまで来たとき、かなり先きの通りに四つ五つの人影が黒くかたまつて立つてゐるのを見た。何をしてゐるのか判らない。房一はそのまゝ家の中に入つた。
風呂にゆつくりとつかつた。
身体を拭きにかゝつてゐると、台所の土間の方で、誰か来たらしい、盛子に向つてしきりと何か云つてゐる声が耳に入つた。それは、せきこんだ、悲しげな、訴へるやうな女の声だつた。
瞬間、房一は緊張した。道平が急変したのかと思つた。さうではないらしい。急患だらうか。それだと、こんな風ではなく、もつと低くおろおろした風に云ふ筈だ。彼は手をやめて、耳をすませた。
「徳次」だの、「橋本屋」だの、「殺されかゝつてる」、「小倉組」だのいふ言葉がきれぎれに耳に入つた。
「ねえ、大変! 早く」
盛子は風呂場の入口で上はずつた声を出した。
「うん」
「徳さんが、――今、そこに、おかみさんが来てるんですわ」
「うん、何かア」
やがて、鈍《の》ろい、呆《ぼ》けたやうな返事をしながら、房一の湯上りでよけい赤紅《あか》く輝く顔がのぞいた。彼はゆつくりと兵児帯をまきつけてゐた。だが、その様子とはおよそ反対な強《き》つい、きらりと光る目で、盛子のうしろに、半泣きになつた、取乱した青い顔で立つてゐる徳次の妻、ときを見た。
ときは房一を見ると、殆どすがりつきさうになつた。そして、口をひきつらせ、上半身を揉むやうにして訴へかけた。
橋本屋といふのは下手にある、こゝらで唯一つきりの小料理屋だつた。夕方、そこで近在の馬喰《ばくらう》が二人のんでゐた。徳次がそれに加つた。大分酔がまはつた頃、一人の男が黙つて入つて来た。そ
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