腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様《ぶざま》な身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでゐた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細《しさい》らしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。

 房一には連れが二人あつた。
 一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳《くろめ》がちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍《やや》肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つてゐた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳《かん》の強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感《をかん》を覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つてゐた。
「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」
 小谷はしばらく放つてゐた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
 朝早くから徳次が探し歩いてくれたので、房一には追鮎の素晴しいのが手に入つた。浅瀬につけた追鮎箱の中で、肥つた生きのいゝそいつは青黒い美しい背をたえまなく左右に動かしながら、きれいな水に洗はれて、たとへやうもなく靱《しな》やかに強く見えた。鼻先に短い針を通して糸につけて放すと、そいつはいきなり激しい力をもつて水の深みに走つて行つた。
「どうもこれぢや――」
 と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つてゐた方がいいかもしれませんね、これは」
 小谷は房一に話しかけた。
「うむ、――え?」
 房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはゐなか
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