のあることを信じないかのやうに頭を傾《か》しげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びてゐた)彼の持牛についた虱《しらみ》をとる薬はやはり人間にも同じ効《き》き目《め》があるのかね、と訊いたりするのであつた。
 かういふ場合によく現れてゐるやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じてゐるらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、この懶《ものう》げな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけてゐるもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。

 川では鮎漁がはじまつてゐた。
 河原町の人達は皆自家の仕事をはふり出して川に出てゐた。彼等の悉くがこの時期には漁師になつたかのやうであつた。まるで諜《しめ》し合せたやうに同じ麦藁の大きな帽子をかぶつて、白いシャツを着こみ、魚籠《びく》と追鮎箱とをガタつかせながら、めいめいの家の裏口から河原に現れるのだつた。
 何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしてゐる彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つてゐるのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つてゐる爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫《な》で上げられてでもゐるかのやうに、次々と対岸の急
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