盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つてゐるも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。
 が、一方盛子もまさに自分の幼時を知つてゐると云ふ見知らぬ人から声をかけられた時のやうに、目をぱちくりさせ、好意のまじつた当惑と云つたものを感じてゐた。
「わたしやア――」
 と、徳次は叮寧にならうとして一種奇妙な言葉づかひになりながら、
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
 徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。
「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」
「さうなんですよ。まあだ帰らないの」
 盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つてゐるやうな調子を含んでゐた。
「もうこんなに暗くなつてゐるのにね、何してるんでせう」
 と、彼女は半ば問ふやうに、まじまじと徳次の顔を眺めた。彼はいつの間にか戸口から少し家の中へ入りこんでゐた。だが、その奇妙な遠慮深さのために片手で入口の柱をつかまへたまゝ、宛《あたか》もまだ家の中へはすつかり入り切つてはゐませんや、と云つてゐるやうな恰好をしてゐた。その時盛子は男が今一方の手で平つたい笊を抱へてゐるのに気づいた。その中には笹の葉のやうなものがのせられ、下では魚の腹らしいものが光つて見えた。
 間もなく房一が帰つて来たらしい。
「おい」と盛子を呼ぶ声がした。
「おい、早く早く」
「早く早くつたつて、もうお支度はちやんとできてますわ。あなたが遅くかへつて来といて――」
「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」
 実際盛子をせき立てることは何もなかつた。房一は上着だのズボンだのを脱ぎながら一人で慌ててゐた。何かしら騒ぎだつた。ネクタイがうまくとけなかつた。カラアが外れにくかつた。靴下から足が抜けなかつた。これらの物を畳の上にまき散らかせ、足にひつかけしながら、房一はそこらを高麗鼠《こまねずみ》のやうにぐるぐる舞ひをした。それは図体が大きく不器用なだけに恐しく滑稽だつた。盛子は笑ひながら房一について歩き、その腕からワイシャツを巧みにはぎとり、散らかつた物を手早く始末した。
「袴はそこです
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