に焼いた装飾・二の腕の桃の刺青《ほりもの》。
 狭い東洋の門戸――PHARAOHの国。
 Rue du Nil 街は、木造建築の銀行と煙草の屋台店――ここを下って、土人区へ這入る。
 巴里《パリー》でいえば古着古物屋町《ラグ・ピッカアス・セクション》だ。半暗と湿気と悪臭の横町が、迷園のように縦横に走り、やけにひさし[#「ひさし」に傍点]の突き出た、原色塗りの低い建物がお互いに助《す》けあって並んで、誰かの言った「天刑病市ポウト・サイド」の感じを適切に裏書きしている。砂と埃・半裸体の街上の少年少女・トラホウムで赤い彼らの眼と・細い腕・病菌の沈澱してる路傍の黒い水溜り・胴だけで地べたに笑ってる乞食・骨と皮と耳ばかりの驢馬《ろば》・その脚の関節の真赤な傷口に群れている虻《あぶ》・邪悪そのもののようなキャフェの土間口・そこの軒下に立って葱《ねぎ》を噛《かじ》っているアラビヤ人の木炭売り・往来の中央で反芻《はんすう》に口を動かしている山羊のむれ・通りを隔てて喚《わめ》き合う会話・これら一切のうえに往き渡るむっ[#「むっ」に傍点]と鼻をつくにおい――おまけに、ここらの台所は共同で、しかも野外である。道路の横に大釜が据えられて、口きり一ぱいに羊の脂肪が沸騰している。この釜のまわりの子供と蠅・それを叱る母親・一せい哄笑する町の人々・じつに盛大に混沌雑沓を極めている。
 波止場の附近では行商人に悩まされた。しかし、彼らはそれでも売るべき何ものかを持っていたが、もうここまで来ると、人は、売るべき何ものをも所有していない。だから、乞食は黙ってその病毒の患部を示し、子供達はわけもなく馬車を追って競争し、女はしきりに車上の行人に膚《はだ》をあらわす。
 肉屋がある。血だらけな肉切り台は銀蠅で覆われてる。何という反食慾的な腐爛した臭気! そして、これはまた、何と悲しい麺麭屋《ベイカリー》だ! 店頭のぱん[#「ぱん」に傍点]は、数度の発疹に蒼白く横たわって息づいている。不潔と醜怪。狭い往来は病気の展覧会だ。狼瘡《ルウパス》、風眼、瘰癧《るいれき》、それからあらゆる期程の梅毒――。
 馬車は急ぐ。
 老人の忘八《ホア・マスタ》が、馬車と平行して走る。
『あらびやの女がいますよ。アラビヤの女が――。』
 右からも左からも色んな声が馬車を包囲する。
『仏蘭西《フランス》の女! |大佐さん《ムシウ・カアネル》!』
[#ここから2字下げ]
モハメッドのために!
モハメッドのために!
[#ここで字下げ終わり]
 と祈るように私語《ささや》くのは、盲目の老婆の手を引いた、ベズイン族の少女である。両頬に三本細く文身《いれずみ》してるのが、青い鬚のように見える。「モハメッドのために」幾らかくれと言うのだ。乞食には違いないが、それは表面で、内密には、即座に物好きな旅行者の求めに応ずる。道理で、乞食のくせに、ここらの住民のどれよりも小ざっぱりした服装をして、顔には白粉のようなものを斑《まだ》らに叩いていた。
 この辺一帯がその町なのである。
 よろめいて立つ塔婆《パゴダ》の並列。家々の窓から覗く土耳古宮廷妾《オダリスクス》と王公側室《サルティナス》と回教女《ファティマ》。何と貧しい淫楽の巷であろう! 植民地兵営の喫煙室みたいな前庭。その奥に、薔薇色の壁紙に広告用の掛け暦と、罅《ひび》の入った鏡とを飾った客間。全然生の興味を欠いた女たちの顔。洞穴のようにうつろな胸、睫毛《まつげ》のない眼、汚点だらけの肌、派手なKIMONO、羅物《うすもの》の下着《シミイズ》、前だけ隠すための無花果《いちじく》の葉の形の小エプロン――そんなものが瞥見される。
 彼女らは先を争って戸口から走り出てくる。キモノが宙に飛んで、皮膚の大部分に直接陽が当る。が、慣れた光景とみえて、誰も何らの注意を払おうとしない。ある一軒の家からは、純粋のあらびや女がふたり、瘠《や》せこけた両腕を伸ばして何か盛んに我鳴り立てた。英語の解る御者に訊くと、土地特有の生ぬるいビイルを一杯ずつ飲ませろと言ったのだそうだ。
 この恐るべきポウト・サイドの後宮《ハレム》をPASHAのごとく一順して、私たちは港へ帰った。
 あらゆる天候によごれたSS・H丸の姿が何と有難く見えたことよ!
 午後一時、石炭補充を終って出帆。
 がら・がら・がら・がら――錨を上げる。
 これから、今夜|晩《おそ》くまでスエズ運河がつづく。
 右舷《スタボウド》の岸を船とならんで、白く塗ったカイロ行きの汽車が、沙漠と熱帯植物を背景にことこと這っていた。

     6

 紅海の或る日。
 蒸し殺されるように暑い。これでも今日は幾分涼しいほうである。
 速力。十三|哩《マイル》半。
 南三八度E。
 北風。軽風2。
 温度。大気八四度。
 海水度。八一度。
 晴
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング