uくすのき」である。計らずも私は、そこで一つの生きた学問をしたのだった。
 が、これも五十日あとのこと。
 いまはもう一度|倫敦《ロンドン》出帆へ逆行して、あらためて錨《いかり》を上げる。
 四日[#「四日」に「ママ」の注記]午前九時、SS・H丸はロウヤル・アルバアト・ドックを離れてテムズ河口へ揺るぎ出た。
 がたん!
 踊る水平線へ!
 そして、極東日本へ!


     3

 では、英吉利《ギイリス》よ、「さよなら!」
 さよなら!
 大きな声で「さよなら!」
 何国《どこ》の港も同じ殺風景な波止場の景色に過ぎないんだが、長い長い帰りの航路をまえに控えている私達の心臓は、いささか旅行者らしい感傷に甘えようとする。が、そんな機会はなかった。交通検閲はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。私と彼女が、桟橋に立っている二人の巡査と、数人の近処の子供らと、一団の荷役人夫たちに別れの手を振りながら、すこしでも強く長くこの倫敦《ロンドン》の最後の印象を持続しようと焦っているうちに、船は自分の任務にだけ忠実に――大きな身体《からだ》のくせに驚くほど早い。さっと出てしまった。私達は船室へ帰る。
 皿の上の魚のように、彼女はいつまでも黙りこくって動かない。なにが彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。考えてみると、私達は倫敦で相当根を下ろして生活したものだ。人間というものは、勝手な生物《いきもの》である。こうしていざ倫敦とろんどんの持つすべて、英吉利《イギリス》と英吉利の提供する凡《すべ》てから、時間的にも空間的にも完全に離れようとするいま、私達は急に一種白っぽい、妙な不安に襲われ出したのだ。生れた国へ帰ると言うのに、これは何とした心もちであろう? が、それは、ふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然過ぎる、長旅に付きものの漠然たる「前途を想う憂鬱」だったに相違ない。
 しかしこの「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと黄黒《きぐろ》い倫敦の露ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、この一年あまり欧羅巴《ヨーロッパ》地図の上を自在に這い廻って、いま家路に就こうとしている二足の靴を想像する。それは言うまでもなく、ろんどんチャアリン・クロスの敷石も、クリスチャニアのフィヨルドも、シャンゼリゼエの鋪道も、同じ軽さで叩いたし、マドリッド闘牛場の砂も附けば、これからはまた印度《インド》の緑蔭も踏むことだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫でたしナポレオンの帽子にも最敬礼した。西班牙《スペイン》の駅夫とも喧嘩したし、白耳義《ベルギイ》の巡査にも突き飛ばされた。モンテ・カアロでは深夜まで張りつづけたし、ムッソリニ邸の門前で一枚の落葉を拾ってくる風流記念心も持ち合わせた。独逸《ドイツ》廃帝も付け狙ってみたし、明方近い巴里《パリー》のキャバレも覗いた。裏街の酒場の礼儀も覚えたし、新しい舞踏ステップも一通りは踏める。それから・それから・それから――眼まぐるしく動いたようで、一個処にじっと落ちついていたような気もする。今になってみると、もう一度繰り返したい一年余であった。
 気がつくと、私は、船の進行に合わしていつの間にかこころ一ばいに絶叫していた。
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がたん・がたん!
がたん・がたん!
Home−coming blues !
Home−coming blues !
[#ここで字下げ終わり]
 何とそれが調子よく機関のひびきに乗ったことよ!
 これからは当分、この連続的に退屈《モノトナス》な低音階と、ぺいんとの香《におい》と、飛魚と布張椅子《キャンヴス・チェア》と、雲の峰だけの世界である。
 ろんどん――ジブロウタ――馬耳塞《マルセーユ》――NAPOLI――ぽうと・さいど――スエズ――古倫母《コロンボ》――シンガポウア――香港《ホンコン》――上海《シャンハイ》――コウブ――よっくへえま! ふうれえい!
 船室は、B甲板の106号。左舷《ポウト》である。
 夜、寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 バクスタア家からフェンチャアチ停車場へのタキシの窓に瞥見を持った最後の倫敦《ロンドン》――うす陽が建物を濡らしていた。銀行街にあふれる絹帽《シルク・ハット》と絹ずぼんの人波。その急湍の中流に銅像のように直立していた交通巡査の白い手ぶくろ。
 とにかく、これが当分のお別れであろう英吉利《イギリス》海峡――去年の夏はこの上層の空気を飛行機で裂いた――の晩春の夜を、船はいま、経済速力の範囲内で、それでも廻転棒《シャフ卜》を白熱化させて流れている。じぶらるたるへ、マルセイユへ、ころんぼへ、上海《シャンハイ》へ、やがて、神戸へ!
 朝は、私たち同行二人の巡礼を、すっかり「家を思い出して帰ろう
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