空を仰いだりして、ようやく安心してホテルへ這入って行った。タレスに残ってスキイの手入れをしているのもあった。そこにもここにも雪を払う音がしていた。石段を蹴って靴を軽くしているものもあった。あるいは背中の雪を落しっこしていた。ボウイ達が柄《え》の長いブラシを持って走り廻っていた。誰もかれも真白な呼吸《いき》をしていた。それはちょうど人々の腹中に何かが燃えていて、その煙りが間歇《かんけつ》的に口から出て来るように見えた。鈴の音が、いま汽車を降りた新しい客の到着を報《しら》せた。前から来ている知人達が迎えに走り出て、男も女も、女同士も男同士も、交《かわ》る代《がわ》る頬へ接吻し合った。その口々に絶叫する仏蘭西《フランス》語の合唱が大事件のようにしばらく凡《すべ》ての物音を消した。何ごとが起ったのだろうと、上の窓に三つ四つの顔が現われた。
闇黒の度が増すと、タレスから雪の上へかけてホテルの明りが、広く黄色く倒れた。その上を、ダンスの人影が玄妙に歪《ゆが》んで、一組ずつはっきり[#「はっきり」に傍点]映ったり、グロテスクに縺《もつ》れたりして眼まぐるしく滑って行った。
私達の背後《うしろ》には、食堂の真ん中の空地《あき》を埋《うず》めて弾《ば》ね仕掛けのように踊る人々と、紐育《ニューヨーク》渡りのバワリイKIDSのジャズ・バンドとがあった。彼らの三分の二は黒人だった。サクセフォンは呻吟し、酒樽型の太鼓は転がるように轟《とどろ》き、それにフィドルが縋《すが》り、金属性の合の手が絡み――ピアニストは疾《と》うに洋襟《カラア》を外して空《クウ》へ抛《なげう》っていた。
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Was it a dream ?
Say, Was it a dream ?
昨夜《ゆうべ》あなたは僕の腕の中にあった。
僕の腕はまだその感触でしびれてる!
それなのに夢だなんて!
Say, was it a drea−−m !
Was it a drea−−m !?
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一曲終る。アンコウルの拍手はしつこい。続いてまた、直ぐに始まる。
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Was it a dream ?
Say, was it a−−?!
[#ここで字下げ終わり]
限《き》りがない。
ロジェル・エ・ギャレは、ここでいきなり先刻《さっき》言ったように私に話しかけたのだ。しかも、これが初対面の挨拶なのである。もっとも私は、その後よく彼が、この「サン・モリッツの雪と近代の恋愛」という得意の題目で、到るところで未知の人と即座に交際を開始する手ぎわを見たことがあるけれど、何しろ、その時は最初だったし、それに、果して私にアドレスしてるのかどうか判然しなかったので、私は、彼に不愛想な一瞥を与えたきり黙っていた。すると、ロジェル・エ・ギャレは面白そうににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して、勝手に私の横へ椅子を引いたのである。
これでも判る通り、このロジェル・エ・ギャレは百パアセントの希臘《ギリシャ》人なのだ。古来ぎりしゃは、どこの国よりも多くの独断家を産出した点で、哲学史上有名な民族である。そして、この種の独断家には、出来るだけ思いがけない場合に、出来るだけ思いがけないことを、例えば、同盟|罷業《ひぎょう》を討議中の労働組合総会の席上で、やにわにダフォデル水仙の栽培法を説き出したりなんかして、人をびっくりさせることも、その才能の一つとして公認されていなければならない。
水仙《ダフォデル》を手がけて最上の効果を期待していいためには、まず、排水の往き届いた、※[#「土+盧」、第3水準1−15−68]※[#「土+母」、261−10]《ろぼ》性粘土の乾涸《かんこ》せる花床《はなどこ》に、正五|吋《インチ》の深さに苗を下ろし、全体を軽く枯葉で覆い、つぎに忘れてならないことは、桜草属《ピリアンサス》の水仙だけは、他種に比較してよほど繊弱だから、これは、機を見て早く移植する必要がある。ETC・ETC――と言ったような、こんな主張が、希臘《ギリシャ》生れの独断家においてのみ、その「頭の熱い」ストライキの議論と、何と不思議に美しく調和することであろう!
で、私は、頷首《うなず》いた。
彼は、自分の唐突な説が、私の上に影響したであろう反応を見きわめるために、身体《からだ》を捻《ね》じ向けて、私の顔を下から仰いだ。
『ははあ! 驚いていますね。しかし、驚異は常に智識のはじめです――。』
こう言って、彼は、少女のように肩で笑いながら、彼のいわゆる「方程式の証明」に取りかかったのだった。
私は、片っぽの耳だけを希臘《ギリシャ》人に与えて、もう一つの耳では、バワリイKIDSの狂調子を忠実に吸い込んでいた。
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