春の煙りが、カラカラ浴場跡の雑草のように、生々《いきいき》と沸き上るのを見た。
 ゴンドラを繋ぐ、理髪屋《とこや》の標柱のような彩色棒の影が、水の上で、伸びたり縮んだり、千切《ちぎ》れたり附着したりして、一日遊んでいた。
 裏町では、毎日、窓から窓へ、夥しい洗濯物の陳列会が開催された。
 泥柳が、岸に堵列して、晴天を祝っていた。
 私は、|溜息の橋《ブリッジ・オヴ・サイ》の下に、ゴンドラを流して、ヴェニス市民の全生活を、そこの石垣の根に眺めて暮らした。ヴェニス市民の全生活が、その、赤土《あかつち》沼のような水の表面を、ゆるく旋廻して通り過ぎつつあったのだ。それは、古靴の片っぽ、破れた洋傘《こうもり》、果物の皮、死んだ箒《ほうき》、首のない人形、去年の雑誌、無生物になった仔猫など、すべて、この町の春の支度に用のないものばかりだった。
 こうして、一九二九年の春は、長靴から立ち昇っていた。
 が、このヴェニスのホテルの酒場で、私は、ルセアニアの商人に化けて、密かに這入り込んだ「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」の若い論説部員が、羅馬《ローマ》へ着くと同時に、逮捕されたことを聞いた。彼は、前夜から同室していた刑事に、徹宵《てっしょう》警戒されていたのだということだった。
 しかし、私は、それ以上、いろいろなことに思い当った。
 第一、その論説部員は、同室の刑事に、徹宵警戒のため抱擁されていたのだ。
 そして、刑事は、外国人のひとりとして、私をも注意視し、私の行動を追うために、車内で問わず語りにベニイのことを饒舌したり、ホテルを嗅ぎ当てたり、自動車会へ呼び出したり、ナポリへ手紙を送ったりしたのではなかったか。
 私の眼に、ヴァンテミイユ羅馬《ローマ》間の国際特急を移動管轄している、ムッソリニ直属の外事課高等刑事の乳房と、彼女の下腹部の黒子《ほくろ》が、瞬間、浮かんだ。



底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店

   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
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