がちょうど日曜だったので、知らないでいた人が多かった。と言うのは、西班牙《スペイン》には新聞記者日曜休日法という法律があって、日曜日の夕刊と月曜日の朝刊は出さないことにしている。したがって日曜日にはどんな突発事があっても、翌日の夕方までは一般的に報道されない。事実、このダアト暗殺事件のときも、あくる日まで誰も知らなかった。が、ホウセリトが死んだ日は、闘牛があったくらいだから日曜だったにも係わらず、この法律を無視して堂々と大々的に写真入りの号外を出して、そして堂々と罰金を食った新聞があった。保守党首領という政界大立物の横死には規則によって、沈黙を守っても、一闘牛士の異変を伝えるためには、社として大金を犠牲にしてかまわないのだ。ここに闘牛に対する西班牙《スペイン》民衆の態度が一番よく反映していよう。
 ついでだが、この闘牛で殺した牛はどう処分するかと言うと、皮は革屋へ、肉は肉屋へそれぞれ引き取らせている。が、さんざん血を出して死んだんだから、肉はべらぼうに硬くてほとんど食用に耐えない。したがって、値段も猛烈に安い。だから、闘牛のあったあとは当分、裏街の裏まちまでこの靴の底みたいな「闘牛《トウロス》ステイキ」か何かがあまねく食卓に往きわたろうというわけで、ことによると、今日の牛ドン・カルヴァリヨなんかも、二、三日するとモンテイロ街のペトラの下宿で、皿の上の無邪気《イノセン卜》な、一肉片に変形して私のフォウクの下に横たわるかも知れない。用心しよう。
 やあ! 急に騒がしくなった。
 ベルモントだ!
 ベルモントだ!
 ベルモントが出て来た。
 いつの間にか手銛士《バンデリエイル》と代り合って、いよいよ仕留花形役《マタドウル・デ・トウロス》のベルモントが砂を踏んでいる。
 彼の業《わざ》は素早かった。
 金モウルの手に剣《エストケ》がきらめいたと思ったら、湿った音を立てて「赤い小山」が横に倒れた。
 脱帽したベルモントが、円形スタンドの全方面へまんべんなく挨拶してるのが見える。
 総立ちだ。
 カアネエション・指輪・CAPA・帽子・すてっきなんかが雨のようにリングへ飛ぶ。
 オレイハ!
 オレイハ!
 オレイハ!
 太陽の叫喚。
 人民の声。
 耳《オレイハ》! 耳《オレイハ》! 耳《オレイハ》!
 牛の耳を切り取ってベルモントへ与《や》れという観衆の要求《デマンド》である。
 闘牛士はみんな、この牛の耳を乾《ほし》て貯めてる。これをたくさん持ってるほど名声ある闘牛士だ。ベルモントなんかには、何と素晴らしい牛の耳《オレイハ》の蒐集《コレクション》があることだろう!
 現にいま、切り離したばかりの血だらけの牛の耳を提《さ》げて、彼は群集へ笑いかけている。
 三頭立ての馬が「とうとう死んだ」牛の屍骸《しがい》――マイナス耳――を引きずって走り込む。
 砂けむり。
 牛の耳の乾物《ほしもの》――私は西班牙《スペイン》まで来て、今日はじめて「牛耳《ぎゅうじ》を取る」という意味が解った。



底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
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