砂を打つ。ベルモント門下の高弟|槍馬士《ピカドウル》のひとりが拾う。鍵だ。赤いりぼん[#「りぼん」に傍点]が結んである。牛小屋の鍵だ。
歓声・灼熱・乱舞する日光。
やあ! 鍵を押し戴いた闘牛士が、観覧席の一方へ手を上げて、胸を叩いて絶叫し出した。
『OH! わが心臓の主よ! 悦《よろこ》びとそうして望みの君よ! わたしはこれからあなたの光栄のためにこの牛を殺して私の勇気と武芸を立証します――!』
AH! 何というDONキホウテ式|科白《せりふ》! 呆れた大見得! 中世的な子供らしさ!
すると、その方角に当って、人のなかから女が起立した。この闘牛士の妻、もしくは情婦、とにかくこれが彼のいわゆる「心臓の主」なのだ。
夥《おびただ》しい視線の焦点に、ぼうと上気して倒れそうな彼女が、胸のカアネエションに接吻《キス》して、下の闘牛士へぽん[#「ぽん」に傍点]と投げる。
ふたたび、喝采・動揺・乱舞する日光――羅典《ラテン》的場面の大燃焼だ。
これを合図に、ベルモントをはじめ重立った闘牛士は、一時|溜《たま》りへ引っ込んで行く。
あとには、最初出来るだけ牛を怒らせる役―― Veronica ――の若手が五人、素手に、おのおの肩や腰の紅布《ミウレタ》を外して拡げながら、あちこちに陣取って、身構えた。
広い砂のうえに、ほかに人影はない。
5
はじめ噴火みたいな底唸《そこうな》りが聞えて来た――と思うと、いきなりリングの一隅から驀出《ばくしゅつ》した「真黒な小山」!
何て大きな牛だ!
闘牛場全体に溢れそうじゃないか。
あ! こっちへ来る。びっくり[#「びっくり」に傍点]してらあ! この日光に、色彩に、音響に。
まるで疾駆する「黒い丘」だ。
鈍重の代名詞が、こんなに早く走れようとは私は今まで思いも寄らなかった。
すでに彼は、早速手ぢかの紅布《ミウレタ》へ向って渾身的攻撃を開始した。
きらりと角が陽に光った。闘牛士が身を躱《かわ》した。黄砂が立ち昇った。紅片《べにきれ》がひらめいた。
牛はいま、さかんにその紅いきれへ挑みかかっている。
そうだ。そう言えば、まだこの「牛《トウロス》」のことを説明しなかったが、ちょっとここで一つ大急ぎで書いておこう。
闘牛用の牛はTOROSと言って、牛でさえあれば何でもいいというわけには往かない。だから、昨
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