ラい通路をすり[#「すり」に傍点]抜けるようにして酒を配って歩く。普通の酒場やカフェの光景で、べつだん何の珍奇もない。
 アンリ親分は知らん顔して麦酒《ビール》を飲んでいる。
 待ちきれなくなったように、一行の代弁をもって自任している饒舌家が口を切った。
『何かあるんですか、ここに。』
 コップの底のビイルをすっかり流しこんで、ハンケチで丁寧に口のまわりを拭いてしまうまで、親分は答えなかった。
『詰《つま》らないじゃありませんか、こんなところ。』
 饒舌家が全員を代表してぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]言っている。
 遮るように親分が大声を出した。
『ちょっとそのあなたのテエブルの隅へ、巻煙草でも何でもいいから置いてごらんなさい。』
『え?』と、饒舌家は不思議そうな顔をして、『何でもいい? ここへですか――。』
 言いながらポケットから十|法《フラン》の紙幣を掴み出して、卓子《テーブル》の隅っこへ載せた。
『こうですか――。』
 すると、その言葉の終らないうちに、一同は唖然《あぜん》とした。というのは、ちょうどそのとき饒舌家の傍《そば》に立っていた女学生ふうの女が、いきなり高々と――上げたのである。下には――彼女だった。それが――と思うと、やにわにテエブルの角を跨《また》いで、しばらく適度に苦心|惨憺《さんたん》したのち、その十|法《フラン》札を挟んで悠々と持って行ってしまった。それはじつに、習練と経験を示《アウト》す一つの芸だったと言わなければならない。
 瞬間の驚きから立ち返ると同時に、みんなは争って卓子《テーブル》の隅へ金を出した。だから同時に、あっちでもこっちでも、狭いテエブルの間にこの白い曲芸が演じられている。奥様ふうなのも踊子も、令嬢みたいなのも女給々々したのも。みな一せいに――。
 へんに眼の光る、圧迫的な沈黙がつづいた。そのなかで、高く着物を押さえた女たちが、卓子《テーブル》から卓子へ移って秘奥《ひおう》をつくし、男たちはすべて、誰もかれも無関心らしく頬杖《ほおづえ》なんか突いていた。じっさいそれは、私達の持つ文明と教養を蹂躙《じゅうりん》しつくして止《や》まない、奇異な悪夢の一場面であった。
 みんないつまでも金を置くから限《き》りがない。
 酒番のお婆さんは、語らなそうにそこらを拭いている。
 アンリ親分は超然として壁に煙草を吹きつけていた。


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