T点]と漸遅《スロウ・ダウン》したのが、これなる古い建物の玄関――外見は平凡な一住宅に過ぎない。
 Montparnasse だ。ここは。
 羅典区《カルチエ・ラタン》の夜――何という国境と習俗を無視した――もしくは無視した気でいる――智的|巴里《パリー》、芸術巴里の「常夜の祭り」がこのかるちえ・らたんであろう!
 珈琲《コーヒー》一ぱいで一晩かけているキャフェの椅子のやるせなさ。
 ――夜更けてあおるカクテル・ガラスのふちに、ほんのり附いたモデル女の口紅。
 ――向う通るはピカソじゃないか顔がよう似たあの顔が。
 ――絵の具だらけのずぼん・蒼白い額へ垂れさがる「憂鬱」な長髪・黒りぼんの大ネクタイと長いもみあげ[#「もみあげ」に傍点]・じっと卓上のアブサンを凝視している「深刻」な眼つき・新しい派の詩人とあたらしい派の画家と、新しい派の女と、軽噪と衒気《プリテンス》と解放と。
 ――広い道の両側に「|円い角《ラ・ロトンド》」、「円屋根《ラ・ドウム》」、「円天井《ラ・クポウル》」と三つの珈琲店が栄えて、毎晩きまってる自分の卓子《テーブル》に、土耳古《トルコ》の詩人・セルビヤの詩人・諾威《ノウルエー》の詩人・波蘭土《ポーランド》の画家・ぶらじるの画家・タヒチの画家・日本の画家が宵から朝まで腰を据えて、音譜と各国語と酒たばこの香《かおり》と芸術的空気を呑吐《どんと》して、芸術的興奮で自作の恋の詩を――隣の女に聞えるように――低吟したり、そうかと思うと、おなじく芸術的興奮で真正面から他人の顔を写生したり、やがて出来上ったスケッチを珈琲一碗の値で当の写生の被害者へ即売に来たり、あらゆる思索・議論・喋々喃々《ちょうちょうなんなん》・暴飲・天才・奇行・変物――牡蠣《かき》の屋台店と鋪道をうずめる椅子の海と、勘定のかわりに長髪族が掛けつらねた「|円い角《ラ・ロトンド》」内部の壁の油絵と――畢竟《ひっきょう》らてん区は、それ自身の法律と住民をもつ芸術家――真偽混合――の独立国である。詩人と画家とその卵子《たまご》たちが、笈《きゅう》を負って集まる桃源境《アルキャデア》なのだ。
 ま、それはいいとして、アンリ・アラキの探検隊にはいま俄かに用のないところだから、自動車はこの詩人と絵かきの小父さん達の国を突破しておそろしく暗いここの小路に停車したわけだが――|円い角《ラ・ロトンド》や円天井《
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