A食堂の入口で私たちをふりかえった。
『このなかに一つの驚きがあなた方を待っていますよ。日本の紳士が一人泊っておいでなのです。』
戸があくと、いぎりす人ばかりの、広くもない食堂の隅に、いかさま日本人たることを光栄としているらしいひとつの黄いろい顔が、若いくせにおちつき払って、今やその口へ大きな肉片《にくきれ》を押し込み終ったところだった。
『やっ! こりゃどうも――。』
とナプキンを使いながら立ち上るのを見る、とそれが小野さんだった。
『とうとう脱出なさいましたね。いや、結構々々。え? 私ですか? 二、三日まえにここへ来ました。』
『待遇はどうです?』
『駄目です、こんな家。なっちゃいません。近いうちにまたどこかへ移るつもりです。何しろ、ここの婆さんと来たら慾張りで気が利かなくて――。』
そうして、そばに虔《つつ》ましやかにほほえんでいるチャンバアス夫人をかえりみて、小野さんはひどく紳士的口調の英語に取りかえた。
『ヴァレイ氏夫妻よ! あなた方はいま、英吉利《イギリス》におけるあなた方じしんのお宅へ帰ってきていることをはっきりと意識していいのです。それほど高くあなた方がここを評価《アプリシエイト》しても、それはしごくあたり前というべきです。なぜならば、このチャンバアス夫人は驚くほど親切な、おお! 何とまあ感嘆にあたいする婦人であるでしょう!』
すわりながら小野さんは日本語でつけたした。
『ひでえ婆《ばば》あでさあ、因業な――いやはや、どっかいい家はないでしょうかえ。』
五日ばかりして、小野さんのところへ小野さんが自分で打った電報が配達された。これはこうしちゃいられない――小野さんはチャンバアス夫人へそう言って、ひどくあわてて荷物といっしょに出て行った。どうも手ぎわのいいことである。
小野さんは自動車を有《も》っている。だからそれへ蓄音機とタイプライタアと鞄五個と尺八と、小野さん自身とを積載して、小野さんは絶えずロンドンじゅうを泊りあるいているのだ。
このとおり、小野さんはしじゅう下宿をさがしている。
いまもどこかで新しい下宿を物色していることだろうが、小野さんの場合、それは単なる下宿探しというべく、あまりに多分の内的要求がうかがわれる気がする。無意識のうちに、小野さんはホウムをもとめているのだ。その衝動がつねに小野さんをうごかすに相違ない。
ひろい
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