u自分の妻」に傍点]」とともにこうして自動車を駆ることも、たまにはあるのである。
 空は高く青く、建物は低く黒く、満足したらしい群集は自治的に解散し出す。最後に、イギリス人らしい可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
 待っていたようにバスが唸り出し、苺《いちご》売りが人を呼び、町かどの巡査は人間性を理解しつくしたもののごとく長閑《のどか》にほほえみ、ふたたびいつものヴィクトリヤ停車場まえの妙に鄙《ひな》びたすなっぷ[#「すなっぷ」に傍点]だ。
『思ったより年をとってるのね、アドルフ・マンジュウって。』
 救われたように彼女が言っていた。まず、これはこれでおしまい――そういった、きょうの見物順序《プログラム》のひとつをすました旅行者のよろこびで。

   小野さん

 小野さんはロンドンにいる日本人である。
 小野さんはいつも下宿を探している。
 この下宿さがし――小野さんと私たちが相識《しりあい》になったのは、その「下宿探し」という楽しい企業に関する一つの妙ないきさつからだった。
 当時私たちは、西南の郊外に近いパレス街に、そこらによくある賄付下宿《ボウデング・ハウス》の一つ、ベントレイ夫人方に居を卜《ぼく》していたのだったが、はじめのうちは珍しかったとみえて、何やかやとベントレイお婆さんがよく気をつけてくれたけれど、しばらくいると直ぐ慣れっこになって、だんだん万事粗末にし出した。下宿というものはへん[#「へん」に傍点]なもので、ひとつ嫌《いや》になると不思議に何からなにまで癪《しゃく》にさわってくる。べつに何がどうしたというわけでもないが、ただ朝夕その遣《や》り方のすべてが気に食わないのだ。こうなると先方もこの気分を感じて、気のせいか一そう虐待しはじめる。そうするとこっちもつい好戦的になって、事につけ物にふれ角が立ち、何となく大事件が突発しそうでしじゅう胸のばたばた[#「ばたばた」に傍点]するような日がつづいていた。なにもそんなところに我慢していなくても、ぽんぽん威勢のいい言葉を残して速刻引っ越したらよさそうなものだが、事実また、憤然と荷物をまとめにかかったことも一再にとどまらないのだが、ところが、じっさいに当ってみると、夫婦で荷物を足もとに茫然街上に立つわけにもゆかないしするから、一日延ばしに漫然と腰を据えていたので、そのまえにほかを探したらいいだろうというか
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