ゥで、私は冷たい床板に一そうぴったりと身を貼りつけた。
 ひたひたに水をつぎおわると、すっかり安心したらしい女は、かすかな足音とともに部屋を出て行った。あとには私の靴が口きりに水を張って、それに窓ごしの青葉の影がこまかく揺れていた。
 狂人だった。おかみさんの姉で、戦争で良人《おっと》をなくしてから気がへん[#「へん」に傍点]になっているのだった。二階の一室に監禁同様にして、しじゅうおかみさんが気をつけて私たちにはひた[#「ひた」に傍点]隠しにしていたのだが、そっと抜け出て来ては、靴に水をそそぐことにのみ、狂える女は異常な興味を感じていたものらしい。じつはこの姉なる人が原因で、下宿人もいつかなかったのだ。私たちはすこしも知らずにいたが、近処ではとうから評判の家だった。
 私は、妻の神経と私の靴を保護するために、その日のうちに引越した。出がけに振りかえってみると、私たちのいた二階の窓から、小さな蒼いレムのしかめ[#「しかめ」に傍点]面《つら》が私たちをめがけて突き出ていた。



底本:「踊る地平線(上)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全17ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング