サしたもの。トリイ夫人が出ている。
七月三日――女王座《クイインス》。「メリイ・ドュウガンの裁判」。これは市伽古《シカゴ》の上級法廷を背景とする亜米利加《アメリカ》のメロだが、妙に変っていて大受けだ。現に世界中三十七個国でやっている。観客一同を陪審官に見立てて舞台で公判が進行する。なかなか考えたものだ。如実な、そしてかなりに cleverly done なスリラアである。
聖マアテン街の家
まずしい小人形《マリオネット》の踊りをその踊りの輪のなかから見るつもりで、さんざん探した末この貧民区へうつって来た私たちは、第一に幻滅を味《あじわ》わなければならなかった。というのは、これは私がすこしく物語的に失したせいかも知れないが、そこの貧民窟には、そういう人々に特有な、無智から来る超国境の好意と狡猾な歓迎があるだけで、私がこころひそかに望んだような、「逃げるようにして動く人影」も、「格子縞の鳥打帽を眼《ま》ぶかにかぶって口を曲げてものをいう傷痕《きずあと》の男」も、「誘拐されてくる社長の令嬢」も、OH! 何というあり得ないことであろう! ピストルの音さえもかつて一度として聞えたことはなかった。ただみんなが平和な怠惰と不潔な食物と無害な嘘言とに楽しく肩を叩きあっているばかりだ。それが私にはたまらなく不平だったが、より以上に私を不思議がらせたのは、この人々が、私が日本の社会で私の周囲に見たのと全然同じ小市民的な雑事に追われとおしていることだった。たとえば「何をやらせても駄目な息子」、「六|片《ペンス》あるとすぐ呑んでしまう父親」、「妹の結婚に嫉妬のあまり狂言自殺をする姉」、「年中洗濯の手腕を自慢しているおふくろ」、「どうも近頃様子のへん[#「へん」に傍点]な娘」、「ごみ[#「ごみ」に傍点]を食べて困る赤ん坊」、「何かちょっと借りに来ちゃあ決して返したことのない隣家の女房」――登場人物と出来事はたいがい型のごとくきまっていて、どこの国の裏店《うらだな》もおなじに、人は雨と煩瑣な感情にわずらわされながら無自覚な混迷のうちに年をとってゆくにすぎない。こんな当然の発見を発見としなければならないほど、あまりにもその諸相《フェイゼス》が同一なために、いつしか私たちは異国に来ているという心もちをすっかり忘れて、故国にのこしてきた小さな身辺といささかの変りもない人情と世の中を見出してそこに一つの驚きを経験したのだった。これは、その土地の生活に親しみを知る最初であり、旅行者としての私達が自分じしんに課する「速力あるフレキシビリティ」から言っても、まず安心し自負していいと私は思ったりした。こうしていつともなしにいくぶん彼等に同化しつつある私達のうえに、窓から見るテムズの一部は朝晩の色をかえて、無風帯の日がつづいて行った。
水を吹く靴
『あらっ!』
一番さきに見つけたのは彼女だった。
『どうしたんでしょう? 靴に水がはいっていますよ。』
というのだ。何を妙なことを――と思いながら、彼女の真剣な顔におどろいた私は、いそいで駈けよってみた。なるほど、けさ家《うち》を出るとき寝台の横に脱ぎすてて行った私の代りの靴が、片っぽだけ浪々《なみなみ》と水をたたえている。
『――!』
『――!』
私たちは黙って顔を見合った。あちこち移ってあるいた一つの、その聖マアテン街の素人下宿である。朝から外出していま帰ってきた私達を、部屋へ這入るなり、このへんてこ[#「へんてこ」に傍点]な現象が待ちかまえているのだ。
じっさい、ちょっと説明のつかない異常事である。
私はよく覚えている。私は、出がけに靴をはき更《か》えて、その一足をいつものように乱雑に寝台の下へ蹴込《けこ》んでおいたはずだ。それがいまこうして壁の切り炉のまえにきちん[#「きちん」に傍点]と揃えてある。これはいい。私たちの留守のあいだに、宿のおかみさんが部屋を掃除することになっているのだから、そしてお神《かみ》さんは、貧乏にかかわらず人なみはずれて整理好きだったから、きょうに限らずいつだって私たちのぬぎ散らして出た靴は、おかみさんによって煖炉のまえに並べられるのがつねだった。
しかし、問題は水である。
下宿人の靴へ、しかもその片方《かたっぽう》へ、おかみさんが水をいっぱい注《つ》ぎこんでおこうとは、どうしても考えられない。が、事実は事実だ。このとおりいっぽうの靴に満々と水がみたされて、しかもかなり長時間そこに溜っていた証拠には、内側の皮のいろが水に溶けて、それはうすい黄味を帯びた透明な液体だった。ついでだが、四、五日まえにリジェント街のマンフィルドで買ったばかりの新しい靴なのだ。
『まあ! 何でしょう? あなた自分で入れたんじゃないわね! こんなところへ水を。』
『莫迦《ばか》な! 誰が
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