魔ウむき冬と、ちょうどよきところの春と秋とを持つ。』
『ひゃあっ! 年が年中べらぼうに暑いってえじゃありませんか。うそ[#「うそ」に傍点]ですか?』
『否《いな》。そは断じて事実にあらず。』
 会話の速度が早まるにしたがい、私は一そう切口上だ。床屋は非常に不服そうな顔をしている。
『そうですかねえ――ばかに暑いってことを聞いたがなあ。うそですかねえ、すると。』
 そこで私は、念のために訊いてみた。
『汝は果して世界のいずくに関して談じつつあるや、われこれを疑う。』
 すると床屋が言下に応答した。
『印度《インド》じゃありませんか勿論――お顔は? お剃《そ》りになりますか。』
『否《ノー》!』
『洗髪《シャンプウ》は?』
『否《ノー》!』
『おつむりへ何か?』
『否《ノー》!』
『香油でも――。』
『否《ノー》!』
 八|片《ペンス》おいて出てくるときひょい[#「ひょい」に傍点]と鏡を覗くと、真赤に憤慨中の「印度人」が、この小さく傷つけられた民族の誇りに、いよいよ昂々然と刈りたての頭を高く持しているのを発見した。
 戸外は、それこそ印度《インド》猛夏の日中だった。
 亜米利加《アメリカ》ではしじゅう支那人あつかいされたものだが、どういうわけか、いぎりすへ来たら今度はよく印度人に間違われる。これも或る日の午後、私はろんどん一流の百貨店セリフリッジ、彼女の命令により旅行用の衣裳掛け――あの、折畳式になって皮のふくろに這入ってるやつ――を、hunt down すべく、ちょうど買物時刻の人ごみのなかを血相かえて右に左に奔走していた。すでにこんな努力が必要だったくらいだから、いかにその折畳式袋入衣裳掛なる物品が、ふくろにはいっているせいか旅行用品部のどこを見ても決して露出していなかったかがわかろう。そのうちにつるべ[#「つるべ」に傍点]落しの夏の陽はとっぷりと暮れかかるし、足は棒のようになるし――これじゃあまるで山道にさしかかっているようだが――いったい私は、何ごとによらず西洋人にものを教えてもらうことが大嫌いで、ロンドンなんかでもたとえどんなに途《みち》に迷っても never 人に訊くということはしないんだが、この時だけは仕方がないから、恥を忍んでちら[#「ちら」に傍点]と見えた売子監督《フロア・ウォウカア》へ駈け寄った。
 執事《バトラア》と門衛《ドアマン》と売子監督《フロ
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