シ。良人《おっと》たちはみな市の中心へ出勤し、夫人達はそろそろお茶の支度にかかり、胃は昼飯《ランチ》を消化して睡気《ねむけ》をもよおし、交通巡査はしきりに時計を見て交替にあこがれ――これを要するに、町ぜんたいがようやく一日の疲れを示し出して、蠅《はえ》と床屋の鋏《はさみ》と太陽だけがますます調子づくほか、一時ちょっと万物が虚脱するような真昼の静寂だった――どうもいかにも大事件が突発しそうだが、また私じしんにとっては確かにひとつの衝懼《ショック》にちがいなかったが――。
 ところで、「|近処の床屋《ネイバフッド・バアバア》」と言えば、その舞台装置はたいがいきまってる。あんまり綺麗でない壁にあんまり綺麗でない大鏡が二個|乃至《ないし》三個ならび、そのあいだに角の演芸館《ヴァライティ》の二週間まえのびら[#「びら」に傍点]と、ジョニイ・ウォウカア―― Born in 1882, still going strong ――の広告絵がかかり、あんまり綺麗でない白衣を着た床屋が――床屋のくせに髪をぼうぼうさせて――とにかく、出はいりの誰かれとみんな知合いとみえ、
『よう、ハアリイ! あれからどうしたい?』
『へっへ、ゆうべの勝負か――とうとう七|志《シリン》の負けさ。』
『わりに軽傷で済んだね。』
 なんかと昨夜《ゆうべ》の歌留多《かるた》を追憶したりすること日本におなじ――そのハアリイやデックやタムが、ちら[#「ちら」に傍点]とひとつの鏡を見ては一様にちょっとおどろいている。そこに、黄色い黒い顔の、眼の吊り上った、針金みたいな黒髪の異形な人物の映像がありありと写っているからだ。が、入り代り立ちかわりする外来者が、南あめりか森林地帯で捕獲された不運な小動物――学名未詳――を見学するときの、明白な好奇心と多少の不気味さをあらわした眼をもって、いくら斜めに――正面から凝視することはこの怪人を激怒させるかも知れない。そして犬や猫をさえ激怒させるようなことはしないのが英吉利《イギリス》の紳士だから――見ようと、その映像の本尊たる私は平気以上に平気だ。とは言え、たださえ床屋における私は一ばん弱い瞬間の私だ。私は正直に、このとき私は私のなかの日本人を意識し、三千年の光栄ある歴史を思い、私のうしろにぼうばい[#「ぼうばい」に傍点]たるにっぽんの背景を感じ、この床屋の椅子のうえで、民族代表の重
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