期しなかった、そして、それだけまた自然すぎる、漠然たる憂鬱だった。
 しかし、この「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと赤い東京の夜ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、そこに世界地図の上を這《は》いまわる二足の靴を想像する。それは、倫敦《ロンドン》チャアリング・クロスの敷石もアルジェリアの砂漠も、シャンゼリゼエの歩道も同じ軽さで叩くだろうしベルゲンの土も附けばアラビヤの砂も浴びるだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫《な》でてみたいし、帝王の裾にも接吻したい。西班牙《スペイン》の駅夫と喧嘩することもあろうし、ルウマニアの巡査に小突かれる日もあろう。モンテ・カアロでは夜どおし張るつもりだ。ムッソリニと握手する。一夕《いっせき》独逸《ドイツ》廃帝と快諾して思い出ばなしを聞く。ナポレオンの死の床も見たいし、ツタカメン王の使用した安全|剃刀《かみそり》もぜひ拝観しよう。それから、それから、ETC・ETC――出来るだけ多くの大それた欲望を持つことが、旅行者にあたえられた権利であり、義務なのだ。
 気がついてみると私は、汽車の進行に合わしてこころ一ぱい叫んでいた。
 がたん・がたん!
 がたん・がたん!
 歓呼のこ――えに送られて
 歓呼のこ――えに送られて
 何とそれが調子よくピストンのひびきに乗ったことよ! ことによると私は早くも無意識のうちに、自然現象のように自由で無頼な放浪者を気取っていたのかも知れない。
 寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 ホテルから東京駅へのタキシのなかから一瞥《いちべつ》した最後の東京。雨が降っていた。窓を打ってななめに走る水。丸ビルを撫で上げる自動車の頭灯《ヘットライト》。
「東京――モスコウ」と朱線のはいった黄色い切符を示したとき、ちょっと儀式張って、善きほほえみとともに鋏《はさみ》を入れてくれた改札係の顔。若きかれのうえに祝福あれ!
 とにかくこれが当分のお別れであろう日本の春の夜を、汽車はいま狂女のように驀進《ばくしん》している。下関へ、ハルビンへ、莫斯科《モスコウ》へ、伯林《ベルリン》へ、やがてロンドンへ。
 朝は、私たち同行二人の巡礼をすっかり国際的な漂泊人のこころもちのなかに発見するであろう。
 汽車という汽車のなかで、その夜の九時十五分東京駅発下関行急行――私がそれに何らの必要もなしにほ
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