ヨ向って、左から二番目と三番目の窓の中間、ちょうど鉄の支柱前方線路寄りの個処だ。が、いくら見廻しても、どこの停車場のプラットフォウムにもある、煤烟《ばいえん》と風雨によごれたこんくりいと[#「こんくりいと」に傍点]平面の一部に過ぎない。いや、平面と呼ぶべくそれはあまりにでこぼこして、汽車を迎えるために撒《ま》かれた小さな水たまりが、藁屑《わらくず》と露西亜《ロシア》女の唾と、蒼穹《そうきゅう》を去来する白雲《はくうん》の一片とをうかべているだけだった。
 G氏の案内で構内食堂の隅に腰を下ろす。ここはその朝、外套に運動帽子といういでたちでレスナヤ街二十八号の友人|金成白《きんせいはく》――レスナヤ28は、いま、見たところ何の変哲もない荒れ果てた一住宅だ――の家を出た安重根が、近づく汽車の音に胸を押さえながら、ぽけっとのブロウニング式七連発を握りしめたという椅子である。殺した人も殺された人も、もうすっかり話しがついて、どこかしずかなところでこうして私達のようにお茶を喫《の》んでいるような気がしてならない。
 ハルビン――不思議が不思議でない町。
 OH・YES! HARBIN。いろんな別称で呼ばれるわけだ。
 あらゆる人種と美しい罪の市場。
 海のない「上海《シャンハイ》」。
 そうして、極東の小|巴里《パリー》。
 さればこそ、どんな冒険にでも勇敢《ゲイム》であるべく、彼女の口紅は思いきり濃くなり、やけに意気っぽく帽子を曲げる。AHA!

   夕陽に十字を切る

 火酒《ウォッカ》のように澄み切った空気のなかを、うそ寒い日光が白くそそいで、しっとりと去年からの塵埃《ほこり》をかぶった建物と、骨の高い裸《はだ》かのどろ[#「どろ」に傍点]柳と、呪文のようなポスタアを貼った広告塔と、塑像のように動かない街角の支那巡査、ぬかるみのまま固化した裏通り、zig zag につづく木柵、剃刀みたいにひやり[#「ひやり」に傍点]と頬に接吻して行く松花江《しょうかこう》の風、そよぐ白楊《はくよう》と巻きあがる馬糞の粉と、猶太《ユダヤ》女の買物袋と帝政時代の侍従長のひげと。
 過去と未来が奇《きく》しく交響する、哈爾賓《ハルビン》はいつもたそがれ[#「たそがれ」に傍点]の街だ。
 そこでは、朝も昼も真夜中も、すべてが夕ぐれの持つ色とにおいで塗りつぶされて、その歴史もその市民も、坂も空地
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