に会うと、いつもそうだ。口では極力止めながら、眼では、伊藤を殺せ! 伊藤を殺せ! と僕を――(爆笑)はっはっはっは、なるようになるさ。
柳麗玉 (必死にドアを押えながら)早く外套を脱いで、行李を――。
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安重根が気がついて帽子と外套をとり、卓上の衣類を行李に入れ終った時、ドアがあく。柳麗玉は安重根をかばって立つ。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年ら一団になだれ込んでくる。正面の廊下から黄瑞露がはいって来ておろおろしている。
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朴鳳錫 (柳麗玉を押し退けて)安重根! 貴様は――。
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腕を振り上げて迫る。「燈を消せ!」と誰かが叫んで素早く電燈を消す。隣室から、開け放したドアの幅に光線が流れ込んでいるきり、舞台は暗黒。一同「スパイの畜生!」、「弁解を聞く必要はないっ!」、「今日の行動で明かだ。」、「さんざん俺たちを翻弄したな。」、「やっつけちまえ!」喚声を上げて包囲し、揉み合う。青年らは続々隣室から走り込んで来る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬は渦中に割りこんで大声に怒鳴り、手を振り、鎮撫しようと努める。
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柳麗玉 (朴鳳錫を止めて)何をするの? 静かに話してわからないことなの?
背年C その女も食わせ物だぞ。一緒に殴《や》っちまえ。
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口ぐちに呼ぶ。すべてが瞬間だ――。混雑のうちに朴鳳錫が安重根を殴る。続いて多勢で罵りながら、床《ゆか》に倒れた安重根を袋叩きにする。柳麗玉は下手の裏口を開けて戸外へ駈け出る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬、黄瑞露らは安重根を助けようとして八方停める、押し合う。椅子卓子が倒れ、皿小鉢は落ち、舞台一面に乱闘の観を呈する。
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柳麗玉 (出て行って間もなく裏口から慌しく駈け込んでくる)憲兵ですよ! 憲兵ですよ!
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露国憲兵五六人、佩剣を鳴らして裏口から走りこんでくる。
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憲兵一 (大喝)何かあ、夜中に。
憲兵二 静かにしろっ! 騒ぐとぶっ放すぞ!
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天井へ向けて二三発拳銃の空砲を放つ。一同は安重根、禹徳淳、白基竜、黄成鎬夫妻、柳麗玉を残し先を争って戸外へ逃げ去る。憲兵出現と同時に、黄成鎬は逸早く懐中からトランプを取り出して床に撒き散らしている。
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憲兵二 空砲だ。空砲だ。あわてるな。
憲兵三 燈《ひ》を点《つ》けろ、燈を!
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点燈。青年らすべて退散したる明るい舞台に、家具食器など散乱し、格闘の跡。中央に安重根が俯臥して、柳麗玉はひざまずいて労わり、他はあるいは安重根の傍に、あるいは壁ぎわに狼狽して立っている。床一面にトランプが散らばり、裏口に寝巻姿の近所の男女数名が驚いた顔を覗かせている。
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憲兵上官 (黄成鎬へ進んで)貴様か、ここの主人は。何だこの騒ぎは。どうしたんだ。
黄成鎬 はい。まことにどうも申訳ございません。いんちき札を使ったとか使わねえとか、下らねえことから、何分その、気の早え野郎が揃っておりますんで、へえ。
上官 何? 博奕の喧嘩か。
黄成鎬 へへへへ、なに、ちょいと悪戯《わるさ》をしておりましたんで。お手数をかけまして、なんとも早や――。
憲兵四 (上官へ)自分は知っておるであります。ここは有名な朝鮮人の博奕宿であります。
上官 ほほう、君もちょいちょい来ると見えるね。
憲兵四 違うであります。自分は――。
上官 黙っておれ! (倒れている安重根を軽く蹴りながら)こいつは死んでいるのか。
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と黄成鎬を見て、ひそかに右手の拇指と人指指を擦り合わせて示す。眼こぼし料を要求する意。黄成鎬は手早く紙幣を取り出して、近づく。
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黄成鎬 (安重根を覗いて)へへへへへ、なに、ちょいと眠ってるだけでございますよ、眠ってるだけで。
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自然らしく上官の傍を通る拍子に、そっとそのポケットへ紙幣を押し込む、憲兵ら一斉に咳払いをする。
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憲兵上官 うう、そうか。眠っているのか。眼が覚めたら介抱してやれ。(部下へ)引上げだ。
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禹徳淳、白基竜ら一同博徒らしく装い小腰を屈めるなかを、憲兵裏口より退場。近所の人々は逃げて道を開き、すぐまた覗きに集まる。柳麗玉は安
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