仁丹ある? ひとふくろ。
安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹《こすい》するために――。
子供 小父ちゃん! お母《っか》ちゃんがね、仁丹おくれって。お銭《ぜぜ》持って来たよ、これ。
安重根 (子供に)小父ちゃんは薬売りじゃないよ。さ、あっちへおいで――私はこの国家的思想を鼓吹するために煙秋《エンチュウ》、水青、許発浦、サムワクウ、アジミイなどこの近在の各地を遊説しているものでありますが、国権を回復するまでは、農業にまれ商業にまれ、おのおのその天賦の職業に精励して、いかなる労働も忍んで国家のために尽さなければならない。また場合によっては、戦争もしなければならないのであります。
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遠くから声がする。
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声 貞露! 貞露!――しようがないねえ。どこ行ったんだろう、洗濯物を持ったまんま。
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群集の中から、濡れた洗濯ものを持った女が逃げるように、塀にそって急ぎ足に去る。男の一人が見送る。
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男 おい。貞さん、今夜行くぜ。
女 馬鹿お言いでないよ。
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笑声。眠っている者はびっくりして眼を覚ます。
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安重根 伊藤統監の施政方針はどうしても破壊しなければならない。そのためにはどういうことでもしなければならぬ。若い者は戦争に出て、老人は自分の職業に従事して兵粮や何かの補助をし、子供に対しては相当の教育を授けて第二の国民たる素養を造らねばならぬということを、私は力説したいのであります。
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売薬の名を大きく墨書した白|洋傘《こうもり》をさして、学童の鞄を下げた朝鮮服の男が、安重根と反対側に立って大声に言いはじめる。
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薬売り (鞄から蛇の頭を覗かせて)そうら! 蛇だぞ! ははははは、驚いてはいけない。蛇というとすぐ顔色を変える人がある。ところが、この蛇というやつはまことに可愛いもので、おまけにただ可愛いだけではない。人間さまにとってこれほどありがたい生き物はないんだが、どういうものか毛嫌いする人が多いようです。もっとも、こいつ、あんまり感心した
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